第三十五話 未練、忘却
多少サブタイトル、内容改稿しました(10/5)
四郎の名はたちまち家中に広まり、家臣等は総出で騒ぎ始める。中には日も暮れていないというのに、酒を用意する者まで現れていた。
周囲がその一報に沸く中で、俺は唯一人、城内の一室に籠っていた。騒がしさが苦手な俺は、極力こういったものには参加したくない。
俺は仰向けに寝頃がる。
ふと、昨日の昼間の出来事が俺の脳裏に映像として現れた。
俺が晴信の子の出産が間近に迫っている事を知ったきっかけは、言わずと知れた元諏訪家家臣、高遠頼継が俺の屋敷へとやって来たことにあった。また先の戦の御礼という名目で、俺に甘柿の差し入れを渡す為の来訪だと説明していた。
「実を言えば頼重殿の一件には、少しばかり未練が残っていたのじゃ」
彼が俺に語るのは、諏訪の頃の自分と今の自分について。
頼重に不満を持っていたというのは確かだが、やはり主君に対する裏切り行為には相当思い悩んだことだろう。彼は終始笑顔を浮かべていたが、彼自身の抱える心残りは恐らく早々消えることは無い。
それも裏切者の宿命かと、俺は彼を憐れむ。現に俺自身が転生する前も、俺の周囲は《騙し騙され》で溢れかえっていた。時に己が傷付くこともあった。それが心の傷と成り、完全に癒えるには時をかける必要があった。二度目は無いと信じながらも、癒えぬままに傷つけられる。いわば社会の縮図を無理に見せつけられたような心地である。そういうのは、いつの時代でも変わらないことを悟る。
そういえば、転生前の俺の名は一体何だったか。
とうの昔に忘れてしまったと思っていたが、
今更思い出そうとするのは、難しいだろうな。
俺には、転生前の一年以前の記憶が無い。実際に転生した直後から、日に日に転生前の記憶は薄れてしまっている。
その速度は、通常の忘却とは比べ物にならない。まるでその記憶は不必要だと言われているかの様に。
俺は思い立ったかのように起き上がる。
そして、辺りを見回すのである。
もしかしたら、あの男なら知っているかもしれない。
「ほぉ、元の名が知りたいと申すか」
その男とは言わずもがな、本物の晴幸である。
俺の中の可能性は確信へと変わっていた。
俺の中に住み着いた彼ならば恐らく、俺の正体について何か知っているはずだと。
下手をすれば、彼自身が俺の忘却に関連している可能性もあるのだ。
「残念だが、儂も以前の其方を知らぬ。
申したであろう、儂は其方を意図して呼び出した訳ではないと」
「……!」
予想外だった。俺はてっきり知っているものだとばかり思っていたが、そうではなかった。
ただ話を聞く限り、彼の言い分の筋は通っている。
「誠に何も知らぬのか?」
そう申しているではないかと、晴幸は呆れ気味に口に出す。嘘は付いていないようだ。
忘却の速度は、晴幸の身体として年老いた俺にとって、必然の産物なのか。
思考に浸れば浸るほど、ますます分からなくなってしまう。
もし、山本晴幸としての俺が今の俺ならば、現代で生きていた俺は一体何だというのか。
以前の俺が本物だと仮定したなら、今の俺が全てを忘れてしまった時、俺という存在の証明は一体何だというのか。
いつか、己が転生したという事実さえも忘れてしまうかもしれない。ならば忘れる前に知りたい。どうして山本晴幸として転生を果たしたのか。
それを忘れてしまえば、訊ねることすらも叶わないだろうから。
「儂はてっきり、御前が儂の記憶を奪っていると思うておった」
「はは、そう思われてもおかしくは無いな」
晴幸は外を眺めていた。俺はそんな彼の姿を捉える。
本物の晴幸は、俺以外の人間には見えていない。
恐らく目前の存在は、俺の中の異物が作り出した幻想に過ぎない。
もしかしたら、この男は本物の晴幸では無いのかもしれない。
《異物》が、晴幸の身体をして現れただけなのかもしれない。
じゃあ、異物とは一体誰なんだ。
この男は、一体誰だというのだ。
「……きりが無いぞ」
俺は目を見開く。晴幸は俺を横目に薄ら笑みを浮かべる。俺は一瞬焦りを見せたが、直ぐに平常を装った。
そういえば俺の心の中は、この男には全て筒抜けだったな。
俺は苦笑いを浮かべ、その場を誤魔化す。
気づけば、陽が沈み始めている。
部屋に肌寒い風が通り抜ける。
もうじき、山本晴幸としての俺の一日が終わる。
そう思った時、ふと背中に寒気を感じるのであった。




