第三十四話 跡継ぎ、名付け
翌日、晴信は家臣にその旨を説明する。俺の発言通り、その説明に誰一人として反対する者は居なかった。こうして、十日後に彼女を迎え入れる手筈となったのである。
「此度のことは、唯の杞憂であったな」
晴信の言葉に板垣は微笑する。
「晴信様、頼重殿と禰々様の下には、男子が居た筈にございます。何故その者を諏訪の後継ぎにさせなかったのですか」
「儂も初めは考えた、しかし諏訪の姫を招いたとならば話は別よ」
晴信がその様な判断を下した理由とは何なのか。詳しい記述こそ無いのだが、それが諏訪の後継ぎを残すことと共に、武田の跡継ぎを残す有能な方法であったと考える方が妥当だろう。
「御初に御目にかかります、晴信様」
後日、晴信の許を訪れた姫は噂通りの美しさであった。
当時たった十四歳の姫は、家臣共によって〈諏訪御料人〉と呼ばれるようになる。
晴信とて若いと言えど、年は九つも離れている。
「私は、誠心誠意晴信様を御支え申し上げる所存です」
「随分と堅苦しいな、気負いでも感じておるのか」
「いえ、私は唯、感謝しているのです。
晴信様が我が殿を救おうとして下さった事、
この御恩を、いつしか返したいと思っておりました」
晴信は口を噤み、彼女の目を見る。
「……其方の気持ちは嬉しいが、気楽にしてくれれば良い。
其方が諏訪家にいた頃の様に、振舞ってくれれば良いのじゃ」
諏訪御料人は、彼の言葉に戸惑いの色を見せつつも、ゆっくりと頷く。
それを見た晴信は、再び微笑むのであった。
「良かったものだな」
屋敷の縁側に座る、似ても似つかわぬ二人。
晴幸の言葉に、俺は俯き具合に頷いた。
「如何した?」
「いや、諏訪殿の跡継ぎという名目で武田の跡継ぎを作るというのは、如何なものかと思うてな......」
「ふん、何を申すか。乱世とはそういうものじゃ」
やはりそうなるのか。
全ては、価値観の違いで済まされてしまう。
こういうのは、いつまで経っても慣れないものだ。
年が明け、諏訪御料人は子供を産む。
其れは、待望の男子であった。
「殿、名を何と致すのですか」
「む......中々決め切れぬでな。何か良い案は無いか」
晴信は悩む仕草を見せる。諏訪御料人は傍で彼の様子を見ながら思案する。
「実を申せば、私は長らく考えておりました。
この子が元服を果たした暁に、与える名を」
そう言って、彼女は紙と筆を取り出した。
「この子は武田家の四男ですので四郎、戦に勝ち、また我が諏訪家の通り字であり、多くの者に頼られる男になって貰いたいという心を込め、勝頼というのは如何ですか」
諏訪御料人は、筆で大きく〈勝頼〉と書く。
字が書ける者が少なかった時代、彼女は諏訪家の中でも特に教養のある御方であったという。
「......えらく気の早いものだな。しかし良いのか?これでは諏訪では無く武田の子として名を付ける事にもなろう」
「良いのです、さすればこの子は、諏訪と武田の御家を繋ぐ橋となりましょう」
晴信は、抱かれた赤子に目線を移す。浅い息遣いで、彼女の腕の中で眠り続けている。
「諏訪四郎勝頼……か、うむ。中々良き名ではないか。
良し、決めたぞ。こやつは今日から四郎じゃ」
晴信は笑う。諏訪と武田の同盟の証となる、彼女の言う通りだと思った。
この子は諏訪の跡継ぎであり、武田の男でもある。
晴信はようやく理解した。彼女は元から、それを望んでいたのだと。
諏訪四郎勝頼。彼こそ言わずと知れた、信玄(晴信)の死後に武田家を継ぐ事になる、
後の甲斐武田氏二十代当主、武田勝頼である。




