第三十話 二人、約束
南部との一件以来、俺は呆然と心に穴が開いてしまった様な、空白の時間を過ごしていた。
無論、南部の死を聞きつけた時にはやりようのない後悔の念に駆られ、一日の内に何かにつけ思い悩むほどであった。
少なくとも晴信に呼び出されるまでは、それが続いていたと思う。
「殿、如何なさいましたか」
戦が終わり、彼に呼び出される理由。
俺の中で特に思い当たる節は無かった。
いや、思い当たらない訳ではないが、
〈其れ〉を理由に呼び出されたとは考えにくい。
晴信は、俺の方を睨む。
「嘘偽りを申すな、有体に申せ。
其方は一度、城を抜け出したのだろう」
「!」
晴信は知っていた。
俺がしでかした、赦されざる行為を。
どうして知っているのか。
虎胤が報告したとは思えなかったが、今は犯人捜しをしている暇こそ無い事を悟り、俺は脳内で幾つかの言い訳を巡らせていた。
「……案ずるな、儂が自ずから知った事じゃ。
とにかく、其方が嘘を付けぬ男であることは分かった」
俺は昔から、隠し事をすると表情に出てしまう癖がある。
今回もその癖が出てしまっていた訳だが、晴信はさほど怒ってはいない様で、俺は内心安堵していた。
それに乗じ、俺は訊ねる。
如何して此度の件において南部を改易し、俺には何もしなかったのか。
城を抜け出した自分の方が、責任はあるように思えて仕方がなかった。
「其方は助太刀に過ぎぬ」
晴信の返答は、その一言のみである。納得しない理由は無かった。
追求すれば、相手にはまるで自分が死にたがっている様に見えてしまうと思ったからだ。
「しかし、南部は惜しい男であった。
何も好き好んでではない。
儂が改易の命を下したのも、
あの男が此処に戻って来なかった故じゃ」
自身にとっても苦渋の決断だったと、彼は言う。
俺は彼の言葉に、沈黙を貫いていた。
「晴幸、其方は儂には無いものを持っておる。
例い醜く蔑まれたとしても、
儂は其方を見捨てようとはせぬであろう。
此れからは南部の分まで、宜しく頼むぞ」
晴信の浮かべる微笑みに、俺は思う。
その笑みはきっと、〈偽り〉なのだと。
俺には他人には頼もしく見える晴信の笑顔が、心底恐ろしい。
何故なら、俺は知っているからだ。
此度の件で《南部が晴信の不興を買っていた》事を。
ある日の夕食後、通りかかる部屋から不意に聞こえてきた晴信と家臣の会話。
俺を非難した南部を《邪魔》だと判断し追放したと言っていたのを、この耳で聞いていた。
恐ろしい男だと思った。
惜しいと口にしながら、いとも簡単に斬り捨てる。
まるで、〈虎に化けた鬼〉の様だと。
「其方はこれからも、儂の許に居てくれるか」
晴信は俺に向け、念を押す様に語り掛ける。
その様に、小さく鼓動が跳ねる。
彼に期待されている答えは、一つしかない。
だが、俺はそれでも良いと思った。
南部が言っていた様に、俺もこの男と同じ化物である事に変わりはない。
俺は彼と同様、偽善ながら頬を緩ませる。
俺の生きるべき場所は、此処にもある。
化物には化物だというならば、生き易い世界だ。
もし晴信が望み生きることを強いられたならば、そしてそれが唯一の道ならば、例え鬼にでも何でも、なってやろうではないか。
俺の右目は、術の通じない化物の目をしっかりと捉えていた。
「......良し、晴幸、
金打の儀じゃ、刀を持て」
晴信は刀を立て、俺も続き、刀を立てる。
《金打》。戦国時代における、約束を取り交わす作法。今で言う〈指切り〉のようなもの。
言葉は交わさずとも分かり合える、武士としての誓いの印。
「金打」
二人は、お互いの唾をかんと打ち合わせた。
やはり、俺は愚かな男だった。
自らの正当性を主張するのも、南部が死んだことを棚に上げるのも、ただ行き場を失うのが怖かっただけ。
それすらも、今は正しいと思い込んでしまう。
いつから俺は、こんな愚者に成り果ててしまったのだろうか。
俺はこれからも晴信に慕われ続け、この世を全うする、そんな人生を歩む。そんな気がする。
その日まで、晴信は生きてくれるだろうか。
俺はふと、彼と交わした約束の意味を考える。
秋は深まり、冬がやって来る。
冷たい風が身を震わせる。
城から出た俺は一歩歩き、空を見る。
曇天に、蜻蛉はいない。
死ぬのはまだ先の事の様だと、俺は微笑んだ。
若殿は元気にしているだろうか。
そうだ、久しぶりに手紙でも書いてやろう。
寒くなるから、くれぐれも病には気を付けてと。
その為には、筆と硯も用意しなければ。
思い立ったが吉日。
しかし、その前に薪を取りに行かないとな。
息が白い煙となり、宙に消える。
遠くの山々は、既に白く染まり始めている。
此処にももうじき、雪が降り始める。そんな事を思いながら、俺は誰もいない森へと向かうのであった。
次回、第1章完結。




