第二十三話 終戦、其の後
その日、諏訪頼重は武田に対し、降伏の意を見せる。晴信は彼の命を奪うことなく、弟の諏訪頼高と共に、甲府へと連行する手筈とした。
〈御射山・武田家陣中〉
「原虎胤。其の方、天晴な働きよ。
良く我が城を守ってくれた、後に甲斐にて褒美を渡そう」
血塗れの姿で家臣に支えられているのは、原虎胤。
虎胤は主君を前に薄ら笑みを浮かべ、力尽きた様に目を閉じる。
「原殿!?」
「いや、案ずるな。息はしておる。
血が足りず、気を失っておるだけじゃ」
高遠は虎胤を抱え、甲斐へ戻ると口にする。
「此れより甲斐へ戻る、各々支度は済んだか!」
威勢の良い返事を聞き、晴信は手綱を引いた。
彼を取り囲む様に、各々は歩き始める。
数千の兵が同方向へ揃い歩む姿は、いつ見ても圧巻の一言に尽きる。
「……晴幸殿」
歩き出した俺に語りかけるのは、板垣信方。
俺は彼の顔を見なかった。理由は言わずもがなである。
「先程は済まなかった、ついかっとなってしまった。
其方には其方なりの考えがあったのだろう」
「……いや、謝る事など無い。
其方は儂を止めてくれた。
寧ろ謝るのは儂の方じゃ」
板垣は頬を掻く。陽は既に、真南に昇っている。
初めは気不味さだけが漂っていたが、そんな感情も直ぐに綻んでしまった。
「晴幸殿、一つ言っておく」
途端に、板垣の声色が変わる。
「此度のことで良く分かった。
其方は、人が変わったかの如く牙を向ける時がある。
其方を放って置くのは危険じゃ」
やはり、そうなるのだな。
俺は己の行為を認め、頷く。
「済まぬな、板垣殿」
謝ったところで意味など無い。
俺自身でどうにかなる問題ではない事は、板垣にも自明であろう。
「領主様......」
横目に見えた領民達の表情には、恐怖が混じっている。それを前面に出さぬよう我慢していることは、容易に理解できていた。
「......儂が怖いか?」
彼らの方を見ることなく、俺は問いかける。
答えに詰まる様子に、俺は遂に頬を緩ませた。
これじゃ、今までと同じだ。
今回こそ、上手くいくと思っていたのに。
また、離れていくのか。皆が、俺の許から。
良い、どうせ慣れっこだ。
〈《異物》の事を、他人に話すことは出来ない〉
それでも、いつかは皆理解してくれるのだろうか。
俺が俺でなくなった時、
板垣、御前はあの時の様に、俺を止めてくれるのか?
答えのない問いを続けながら、俺達は再び一日かけ、甲斐に戻るのだった。
領地に戻った後は、まるで戦という事実が虚構だったかのように、何気ない日々が始まるのだった。
戦に同行した男達も、二・三日後には再び何気なく話してくれるようにはなったが、表情は何処か引きつったままである。
彼らは《異物》に取り憑かれた俺の様子を、村の誰にも語ることはなかったという。
帰陣から数日後には、諏訪頼重の身柄が武田家の領地である甲府の東光寺へと送られた。俺には幾度か、そこで頼重と対面する機会があった。
「此度は、誠に無礼を致しました」
「良い良い、其方の御陰で気付かされた。
本より儂は、死ぬ覚悟すら無かったのだ」
頼重が俺に会いたいと口にしていたと、晴信は言った。
頼重が浮かべる笑みは、祈りの届いた彼の心情を表象しているように思える。
しかし、俺の中に浮かに続ける唯一つの疑問。
俺が、怖くないのだろうか。
恐る恐る訊ねると、「少しだけは」と返答した。
「其方、晴信の軍師だそうだな」
「……は」
「儂に聞かせよ、此度の其方の策を。
何故儂が桑原城へ向かった事を知っておった」
俺はあの時の記憶を思い起こす。
それは鮮明に、俺の脳裏に焼き付いている。
俺は何もしていない。全ては〈異物〉のしたこと。
しかし、知りたいと申すならば言わない理由は無い。
俺は記憶を辿り、一から話し始めることにした。
「我らは先ず、貴方様の家臣である金刺昌春様に文を渡しました。
〈上原城にある我らの旗印を見つけさせよ〉と」
金刺昌春。頼重を桑原城へと案内し、
高遠と共に諏訪家の裏切りを図った男。
「そうじゃ、旗印を上原城に立てたのは何奴じゃ。
武田の者では無いであろう」
「はい、高遠頼継様にございます」
その名を聞くや否や、頼重はやはりかと息を吐く。
「知っておったわ、高遠が諏訪上社の惣領の地位を狙っておった事を。
まさか金刺と手を組んでいたとは思わなかったが」
残酷かもしれない。しかし、言わねばならない。
頼重の包囲が可能だった理由。
そうだ、〈異物〉は策通りに動いていた。
「頼重様、一つお伝えせねばならぬことがございます。
桑原城にて貴方様を案内したのは、我ら武田の者にございます」
頼重は驚き、直ぐに頬を緩ませる。
「ははは、それは誠か。
成程、暗闇を利用した訳じゃな」
恐らく、想定外の事態が続いたことで焦りを生んでいたというのも、彼の想定を出し抜いた要因の一つだろう。
いや、〈異物〉にとってはそれすらも想定内であったか。
「そうかそうか、敵ながら見事な策だ。
こりゃ一杯喰わされた。
流石、あやつが軍師として認めた男じゃ」
頼重は笑う。
喜び辛かった。その理由は明白。
此度の出来事は俺でなく、全て〈異物〉が起こした事なのだから。
「頼重様はこれから、如何するおつもりで」
俺の問いに、頼重は俯く。
「先の事は考えておらぬ。
しかし、当分は武田の世話になるだろうな」
諏訪頼重
セントウ 八四七
セイジ 一七五九
ザイリョク 一四三六
チノウ 一七八一
「晴幸様、城へ御戻り下され」
気づけば、日暮れが迫っている。
随分と長く話し込んでしまったらしい。
城からの迎えが来た俺は、頼重に礼をして立ち上がる。
「儂は其方が気に入った。
また来てくれ。
次は女子の話でもしようではないか」
俺は苦笑しながらも頷き、彼に背を向けた。
この男の未来を、俺は知らない。
しかし、この人には幸せになって貰いたい。
こんなにも感情が豊かで、思いやりがある。
晴信も認める程の才を、持っているのだから。
その二か月後、頼重は自身の短刀で自刃した。
それが見つかった頃には、死体は既に、腐敗して居たという。




