第二十二話 抗い、文
「其方が、諏訪頼重殿にございますな」
その言葉に、頼重は見上げる。
背後には己に目を光らせている男達が、数十人。
「皆の者っ、我が殿を御守りするのじゃ!!」
「良い」
頼重は家臣に命じ、前線を引かせる。
目前に立つ《武田家家臣》の様子から、頼重は悟る。
晴信暗殺は、失敗したのだと。
「儂の首を取るか?」
頼重は地に胡坐をかく。
何よりも先に、溢れた一言。
頼重の眼差しは、隻眼の男を捉える。
それは、強かな覚悟を持つ者の目である。
「いえ、そのような事は致しませぬ。
我が殿は、貴方様の死を御望みであらぬ故」
「偽りを申すなっ!!
晴信は我らを許してなどおらぬであろうが!!」
不意に出た大声。
頼重は直ぐに口を噤み、己を見つめ直す。
柄にもなく、熱くなってしまった。
頼重を殺してはならぬ、それは晴信の本心である。
然し、頼重は中々認めようとはしない。
己の中にある自尊心が、それを許さないのだろう。
「……晴信に伝えよ。儂は儂の考えを曲げる気は無いと。
其方が先へ行きたければ、儂を殺してから行けばよい」
「殿っ!!」
家臣は叫ぶ。されど、頼重は振り返らない。
彼の時折見せる微笑みは、死を覚悟している者にこそ見せられる、武士としての誉れ。
「これが己の、己に恥じぬ生き方じゃ」
頼重の覚悟、それは本物だ。
この男が此処で死ぬ気ならば、如何にしてそれに応えるか。
「......承知致しました。
そこまでの御覚悟ならば、
私も腹を括るしかありませぬな」
その時、彼の行動に、周囲は絶句する。
隻眼の男は腰刀に手をかけ、抜く。
銀の刃が朝日に照らされ、神々しい光を放っていた。
諏訪家家臣は危険を感じ、頼重の守備に当たろうとするが、頼重による叱責に二度立ち止まった。
「殿の命に背いても良いのか」
頼重の問いに隻眼の男は嗤い、見せる。
弱者を見下すかの如く、死んだような赤い目を。
「殺せと命じたのは御前じゃ。
儂は唯、御前の祈りを叶えようとしたまでよ」
身も凍る程の、低い声。
〈異物〉は静かに、刀を持つ右手を振りかざした。
「晴幸っ!!」
次の瞬間、背後から何者かに右腕を掴まれる。
途端に身体がびくんと痙攣し、心臓が大きく鼓動を打った。
「……あ……?」
ゆっくりと辺りを見回す。
振り上げた右手には刀。
目前には、男が覚悟を決めた表情で座っている。
「っ!?」
手から離れた刀は、音を立て地へ落下した。
「わしは……なにを……」
隙を見た諏訪の家臣は、頼重を取り囲む。
頼重の身体は汗ばみ、震えている。
彼は遂に食い縛った。それは覚悟を決め、死に切れなかった男の、決死の形相。
異様な光景に我を取り戻した俺には、呆然と立ちすくむことしかできなかった。
「急ぎ駆けつけてみれば、何じゃこの有様は……っ!」
俺の腕を掴んだのは、上原城へ向かった筈の板垣信方。その後方で、微かに血を浴びた領民達が、驚嘆した様子で俺を見ていた。
振り向き様に見えた板垣の表情は、《怒り》という言葉が相応しい、典型的な表情であった。俺に矛先の向いた怒りだと、直ぐに理解出来た。
板垣は俺を強く押しのけ、頼重の側に片膝をつく。
「頼重様、我が殿より文を預かって参りました」
「……文?」
板垣が差し出した封筒には、頼重の名が掛かれている。
頼重は受け取り、静かに封を開け、一語一句丁寧に読み始める。
頼重殿
此度の戦、儂は終始苦しい思いをしていた。
何故ならば、其方を信用していたからだ。
諏訪家とは、我が父の代から代々世話になってきた。
故に、其方と戦いたくは無かった。
儂は其方の行いを、赦すつもりは無い。
しかし、儂は其方に命を捨てて欲しくは無いと思っている。
其方は強い、此の兵力の差で、儂を一度出し抜いた。
其方は武士の誉れだと此処で死ぬ気なのであろうが、
そう易々と死ぬでない。其方には、心強き家臣が居るではないか。
儂と其方ならば、天下を見るのも夢ではない、
争い、易々と人が死ぬ此の乱世を、変えられるやもしれぬ。
それでも死ぬ気ならば、儂の元へ来い。
儂がその間抜け面、叩き斬ってやろうぞ。
「天下……」
「我が殿は貴方様を信じておられます。
どうか我が殿の下へ、参られませ」
長年の仲である故に、分かる。
それは紛れも無い、武田晴信の筆跡。
(晴信には、何もかも御見通しだな)
板垣の言葉に、頼重は微笑む。
「何処までも、優しい男だ」
俯いて放ったその声は、少しだけ震えていた。
俺は放心したまま、その光景を凝視していた。
何が起こっているのか、俺には分からない。
ただ、〈異物〉の行為が、頼重の心情に
小さな変化を与えていたことは、何と無しに理解出来た。
あの男は、何処へ




