第二十一話 思ひ出、懐疑
「殿、只今参りました」
頼重の入城から暫く経ち、石井藤三郎が到着する。
藤三郎が桑原城を訪れたのは、何も自分からでは無く、頼重が呼んだ為である。
頼重は部屋の中心に座り、手招く。
藤三郎が何用かと訊ねると、薄ら笑みを浮かべた。
「儂は考えた。これ以上無いという程に悩んだ。
如何すれば己に纏わりつく穢れを拭えるか」
「穢れ?」
頼重は囲炉裏で沸かしていた湯を茶葉に注ぎ、茶を点て始める。
その間、彼等の間に会話は無い。
「穢れは拭えぬ。儂の過去が許さぬ限りな」
出来上がった茶を、藤三郎は静かに受け取る。
緑濁色の茶。藤三郎にはまるで、それが彼の言う穢れを表象してる様に思えた。
「石井、儂の頼みを聞いてくれるか」
頼重の発する声色の暗さに藤三郎は怖気付くが、逃げまいと頼重の目を見つめ、頷く。
頼重は藤三郎の反応に安堵し、肩に手を置いた。
「武田晴信を、殺せ」
二人の湯呑に、緑の波紋が広がる。
鈴虫の音が、部屋に響く。
頼重と藤三郎、二人の息遣いが聞こえるほど、静かな夜。
藤三郎は一瞬、理解が追い付かなかった。
「もう、後戻りは叶わぬ」
頼重は本気だった。今夜中に武田陣へ戻り、闇の中で晴信の寝首を掻き切るという策。
当然、彼の腕を見込んでの頼みだということは理解できる。
しかし藤三郎が疑問を持ったのは、それ以前の問題。
「頼重様、誠にそれで良いのですか?」
「情を移したのか」
藤三郎は首を振る。頼重はそうかと呟き、目線を縁側へと移した。
「何方にせよ、武田は既に我等との盟約を破棄した。もはや元には戻れぬ。
初めは儂とて、そう思っておった。
しかし、其方の言う通りかもしれぬな。果たしてこれで良いのか、儂も散々悩んだ」
ただ、答えは出なかったのだ。
否、絞り出した答えこそが〈晴信暗殺〉なのだと、藤三郎は理解していた。
「......私もにございます」
視線を移す頼重の前で、
藤三郎は俯き加減に語る。
「私は此度、武田家を裏切り、多くの者を欺きました。
代々諏訪家に忠義を誓っておりました故に、未練こそ無いとそう信じておりました。
しかし今になってみれば、何故か心の奥で自らの行いを悔いているのです。
それでも私は頼重様の御頼みならば、喜んで御受け致します。
主君の御頼みとあらば、悔いなど微塵にございますまい。
武田晴信も、必ずやこの手で仕留めて御覧に入れまする」
藤三郎は先程とは逆に、頼重の手を取った。
「これが地獄相応の行いだというならば、
喜んで共に、地獄へ墜ちましょうぞ。
私は何処まででも、頼重様に御付き致します」
頼重は目に涙を浮かべ、藤三郎を抱擁する。
「すまぬ、儂のせいだ。
其方にも苦き思いをさせてしまった。
赦せ、どうか赦せ」
「......」
頼重は声を上げて泣く。
藤三郎はただ静かに微笑み、頼重の背を摩る。
星が瞬く、雲一つない夜空。
共に命を断ち、共に地獄へ行く事を誓った二人は、気の済むまで涙し、慰め合った。
その後、藤三郎は頼重に礼をし、城を出る。
明くる朝には、藤三郎が事を果たしてくれる筈だと信じ、頼重は床につくのであった。
ここは?
目を開けると、そこはどこか見覚えのある一室。
と、その中心に座る二人の男。
「諏訪殿、盟約を誓おうぞ」
(あれは、我が父と晴信の父か)
二人は正装で酒を飲み交わしている。
頼重が見てきた姿よりも、若く見える。
これは、幼き頃の記憶だろうか。
すると突然、空間が歪む。次に見えたのは、将棋を差す二人の姿であった。
「此処まで詰めようとは、御主も強くなられたものだ」
「いやはや、諏訪殿には到底敵わぬよ」
二人は時折、笑顔を見せる。
そう言えば、我が父は生涯将棋が弱かったな。
思い出し、頼重は頬を緩ませる。
頼重の前に、見覚えのある場面が次々に現れては消えてゆく。
全て忘れ去っていた筈の記憶の数々。その一つ一つがどこか懐かしく、温かい。
目の前で、常に父は笑っていた。
自分は、こんな風に笑えているだろうか。
父上の様に、強く生きれているだろうか。
頼重の中で、欠片がゆっくりと紡がれてゆく。
彼は父の知らなかった一面までも、垣間見る。
それは彼の心の中に、しっかりと刻まれる大事な記憶となり、彼をまた創ってゆく。
思い出は語り掛ける。忘却こそ罪であると。
やはり、〈記憶〉というものは残酷だ。
易々と忘れる事なんて、出来ないのだから。
目が開く。
何処からか耳にした雀の声。
息を吐く。空には既に、陽が昇っていた。
彼は起き上がり、まだ皆が寝静まる廊下を歩く。
藤三郎は、うまくやってくれただろうか。
「殿、御待ち下され」
背後から声が聞こえた気がしたが、彼は構わず歩き続ける。
城外へと足を踏み出した途端に、頼重は立ち止まった。
「宮増丸」
其処に在るのは、紛れもない父の姿であった。
頼重は固まる。十年も前に他界したはずの父が、いま目の前に立っている。
「久方ぶりじゃな」
頼重は目前の光景に、目を細める。
まだ、夢を見ているのだろうか。
不思議と目頭が熱くなった。
「済まなかった。
御前には、辛き思いをさせてしまったな。
御前は強き男じゃ、儂よりもずっと」
謝罪を請う父に対し、頼重は首を振った。
違う。私は父上の思っておられるほど強くはない。
「私は悔いておった。御前を置いてしまった事を。
だが、もはや案ずる必要は無い様だ。
宮増丸、儂の頼みを聞いてくれ。御前は努努、儂のようにはなるな。
御前には、己の生き方を悔いて欲しくは無い。
己を信じ、己に恥じぬ生き様を貫け」
頼重は父の目を見る。
何処までも澄んだ瞳。何時までも変わらない眼差しを向ける。
頼重は、袖で瞼に溜まる涙を拭った。
顔を上げれば、彼の目前に広がる幻想は、跡形も無く消えてしまった。
「は、はは......」
一筋の涙が頬を伝う。
もはや、我慢などできはしなかった。
彼の目前に立っていたのは、赤き目を持つ隻眼の男。
本当は、分かっていた。
これは全て、己が望んだ幻想だと。
頼重の目から出る涙は、止まらなかった。
そんな様を、隻眼の男は静かに見下ろしていた。
幻想はいつか消える。其処に残るのは現実だけ。
その現実は、彼を許してはくれなかった。
でも、それで良かった。
現実は教えてくれる、理想に逃げるのは、卑怯者のする事だと。
そう易々と、死なせるものかと。
その日、諏訪頼重は数名の家臣と共に、武田家五百名によって、包囲された。




