第二百四話 壊れた、算盤
障子から漏れる月明かりが、室内の調度品に淡い影を落とす。
蝋燭の炎がゆらめき、晴信と数名の重鎮、泰山、そして俺の顔を、時折不気味に照らし出した。
泰山は主君の目前にも関わらず、
膝を崩し、懐から取り出した干し柿を無遠慮に放り投げ、口で受け止めていた。
「かっかっか。いやあ、やはり御館様の召される柿は一味違う。
我が村の渋柿とは大違いだ。
これなら戦場に持って行っても、喉が詰まらずに済む」
「 貴様、流石に無礼が過ぎるぞ」
甘利殿の低い声が、夜の静寂を破って響く。
だが、泰山はどこ吹く風で、指に付いた柿の粉をペロリと舐めた。
「まあまあ、甘利殿。そう怒ると、せっかくの強面が台無しでございますぞ。
私はね、堅苦しい話が大の苦手でして。
軍師殿、お主もそう思うだろう?」
泰山がニヤリと俺を見て、肘で突いてくる。
まあそうだろうな。
俺は内心冷や汗をかきながらも、居住まいを正して晴信を見た。
晴信は怒る風でもなく、ただ面白そうに泰山の挙動を観察している。
夜の闇が、彼の表情をさらに読みにくくしていた。
「構わぬ、泰山、其方の口と態度の悪さは承知の上よ。
それより、義清のことをもう少しばかり聞かせよ」
晴信の問いに、泰山はふっと表情を緩めた。
だが、その瞳だけは笑っていない。
蝋燭の炎が彼の瞳に宿り、
まるで深淵を覗き込むかのように、冷たい輝きを放った。
「調理とは、言葉選びが秀逸なことで。
御館様、義清という男はね……
あれは『壊れた算盤』でございますよ」
「壊れた、だと?」
板垣殿が怪訝そうに眉を寄せる。
泰山は空中に円を描くように手を動かした。
「左様。あやつは、本来なら我らと同じ『人の弱さ』を解する男じゃ。
じゃが……あやつは恐れているのですよ。
この乱世、一瞬でも迷えば、自分も、自分を慕う民も真っ先に喰い殺される。
故に、己の心を殺し、無理やり『冷徹な合理』という鎧を纏っている」
泰山はにやつきながら、俺の顔を覗き込んできた。
その顔は、蝋燭の影で半分が隠されていた。
「軍師殿。お主のように、
あやつもまたこの世の『理』をどこか俯瞰で見ている節がある。
あやつはその鋭すぎる知覚ゆえの恐怖から逃れるために、
戦場を一つの完璧な盤面として納めようとしておる……
皮肉な話じゃ。あやつは世に抗うために、
持つべき『人としての揺らぎ』を、
必死に捨てようとしているのですからなぁ」
俺は心臓が跳ねるのを堪えた。
泰山は、勿論俺たちの正体を知らない。
だがこの男の洞察は、義清が抱える矛盾——
乱世の理に過剰に順応しようとする絶望——を、
正確に言い当てるものだった。
「……泰山殿の申す通り、
恐らく村上は、この戦場を数値で支配しようとしております。
己の迷いを断ち切るために、『合理的な勝利』という正解にすがっている。
逆を申すならば、奴は『正解のない事態』に直面したとき、
鎧の下の素顔が露呈するはずです」
俺が補足すると、泰山はパチンと指を鳴らした。
その軽快な音が、静かな部屋に妙に響く。
「そう!だからこそ、戦略は『出鱈目』に限るのだ。
あやつが必死に弾き出した算盤の玉を、横から竹棒でひっくり返す、
あやつが『こう動くのが戦の常道だ』と信じている場所に、
あえて一番弱く、今にも逃げ出しそうな雑兵を置く。
そして、板垣殿や甘利殿といった『金駒』を、
戦場とは全く関係ない泥沼の影に突っ込んでおく。
無駄、無意味、非合理!
算盤が弾き出せない『馬鹿の極み』を、あの男にぶつけるのですよ」
「……ふっ、馬鹿の極み、か。
我らに死ねと言うのか、泰山」
甘利殿の声が低く響く。
夜の闇が、彼の表情を一層険しく見せた。
泰山はケラケラと笑い飛ばした。
「何を申します、死なせやしませんよ。
村上が信ずるのは『正しき答え』のみ。
だからこそ、こちらが『絶対にあり得ない間違い』を犯したとき、
あやつの合理は狂い、盤面ごと爆ぜる。
あやつが『自分は人ではなく、冷徹な管理者だ』と言い聞かせるその嘘を、
我らが剥ぎ取ってやるのですよ……どうです、御館様?
正月早々、人使いの荒い御家のために、
こんな馬鹿げた遊びに付き合う気はありますかな?」
晴信はしばし沈黙し、蝋燭の炎を見つめていた。
やがて、その口から低く、野獣のような笑い声が漏れた。
それは、夜の帳に溶け込むかのような、不気味な響きを持っていた。
「面白い。村上の算盤を粉々に砕き、
奴を再び『人』へと引き摺り下ろすか……
信方、虎泰。此度の戦、この二人の毒に賭けてみようではないか」
「……御意に」
「承知いたしました」
二人の重臣が不承不承ながらも、覚悟を決めた顔で頭を垂れる。
その表情は、夜の闇に隠されて、はっきりと読み取ることはできなかった。
泰山は再び干し柿を口に放り込み、俺に向かって片目を瞑ってみせた。
「さて、軍師殿。
上田原の雪をどう汚してやるか……
それを考えるのは、其方じゃ。
あやつの算盤を、其方の手で壊してしまおうではないか」
泰山のおちゃらけた態度の裏側。
俺は救うべき歴史と、崩れ落ちる未来の境目を見た気がした。
夜は更け、月は、無関心な光を地上に投げかけていた。




