第二百三話 旧式の、遊戯
信濃、葛尾城。
千曲川を見下ろす険峻な要塞の最上階で、村上義清は一人、盤面を眺めていた。
そこにあるのは、和紙に描かれた戦国時代の古地図ではない。
地形の起伏から兵の配置まで、完璧な精度で再現した、脳内の仮想図である。
これこそが、彼に備わった術の一つ。
己を中心とした一定範囲を、空を舞う鷹の如き視点から克明に捉える能力。
「……武田が動いたか」
義清は、冷めた茶を一口啜る。
彼にとってこの戦国という時代は、あまりに稚拙で欠陥の多い「旧式の遊戯」に過ぎなかった。
村上義清という肉体に宿る前、彼はあらゆる事象を最適化し、合理以外を排除する側の存在であった。
記憶は曖昧だが、この世界の人間が「情」や「義」と呼ぶ非合理な熱量を、
彼はただの雑音、あるいは修正すべき数値の狂いとしてしか認識していなかったのだ。
「真田幸綱。
あの男は一度、儂の領域に踏み込み、そして壊れた」
義清の口角がわずかに上がる。
かつて接触してきた幸綱は、「他人を意のままに操る」という術を有していた。
だが、義清にとってそれは、管理者に牙を剥く不遜な不具合に過ぎなかった。
義清は、第二の術――転生者の術を奪い去る力で、幸綱からその権能を剥ぎ取って。
そして仕上げに、奪ったその力を用いて幸綱自身を《書き換えた》のだ。
一度精神の根幹を捻じ曲げられた者は、義清という存在を前にすると思考が停止し、
本能的な恐怖に縛られる操り人形へと成り下がる。
だが、今の義清が懸念しているのは、既に術の委細を知っている幸綱ではない。
武田の陣営に突如として現れた異物――山本晴幸である。
「山本晴幸。其方は、この盤面をどう読み解く?」
義清は、空中に指を滑らせた。脳内の図の上で、赤い光点が蠢く。
彼には見えていた。武田の進軍ルート、兵糧の残量、
そして板垣信方や甘利虎泰といった将たちの命の灯火が。
「史実」という名の確定した道筋によれば、この上田原こそが、
武田の栄華に最初の亀裂を入れる決戦の場となる。
だが、義清が真に求めているのは勝利ではない。 彼が渇望しているのは、自分以外の転生者が持つ術そのもの。
「さて、どのようにして、
山本晴幸を我の元へ手繰り寄せようか」
義清は、窓の外に広がる曇天を見つめた。
彼が晴幸を執着に近い目で見つめる理由は単純である。
晴幸が、この世界に大きく影響している人物であること。
そして、晴幸が史実を塗り替えようと足掻くほど、盤面には「誤差」が生じる。
その予定不調和な誤差こそが、義清が晴幸の魂を掴み、己の駒として御するか、
あるいはその術を奪い取るための「隙」となるのだ。
「晴幸よ。お主が情に流され、救えぬはずの命を救おうとするならば、
それは私の採算通りの動きじゃ。
お主が『正解』を選ぼうとする途端に、その正解の定義を、儂が上書きしてやる」
義清の手の中で、空想の算盤がパチリと弾かれた。 史実通りに武田の柱石をへし折り、敵の首を並べるか。
あるいは、歴史に抗おうとした晴幸の希望ごと、その未来を絶望へと書き換えてやるか。
「さあ、来い。決戦の地へ」
独り言は、湿った冬の風に溶けて消えた。
義清の瞳には、すでに血に染まった雪原と、そこでのたうち回る武田勢の無惨な姿が、
鮮明な映像として冷酷に映し出されていた。




