第二十話 晴幸、覚醒
上原城は、信濃国諏訪郡にそびえる金毘羅山の中腹に建つ。
其の山の麓から見上げているのは、
諏訪家の家紋が描かれた陣羽織を羽織る男。
男は諏訪の者がいないことを確認し、叫ぶ。
「良いか皆の者!
此れより原虎胤殿を、一所懸命に御守りする!
各々、馬を信じよ!!」
呼応と共に手綱を引き、一斉に駆け出す。
彼等の先頭に立つ男こそ、武田への寝返りを聞き入れた諏訪家家臣、高遠頼継である。
〈数刻前、武田家陣中〉
原虎胤が夜襲に遭ったと聞き、晴信は直ぐさま板垣に上原城へ向かうよう指示する。(その板垣が率いる少数部隊の中に、かつて俺と共に城へ赴いた領民達の姿もあった。)
「虎胤、其方は武田に必要な男だ。
死ぬな、まだ死んではならぬ」
晴信の呟きに、返す言葉も無い。
傍で見ていた俺はいたたまれず、明後日の方を眺める。
原虎胤は、武田家中でも特に徴用されていた男らしい。
故に起こる、重苦しい雰囲気。
どうも居心地が悪い。息苦しい。
今直ぐにでも、此処を離れてしまいたいと思うほどである。
しかし、この重苦しさの中で、俺だけは場違いに冷静であった。
理由は一つ。俺にしか分からない、理解されない理由である。
そんな中、突然陣に伝令役の男が転がり込む。
「殿!!高遠殿がお見えです!」
その報告に、晴信の目が開いた。
「……来たか」
旗差が翻る。途端に風向きが変わる。
まるで此の時を待ち詫びていたかの様に、彼は立ち上がるのだった。
「御初に御目にかかります、
高遠頼継にございます」
外見は若く、好青年。
しかし、彼こそ諏訪を裏切り、板垣によって自ら此処に来る事を選んだ男である。諏訪から見れば立派な〈逆賊〉であろう。
晴信は彼を歓迎しつつ、直ぐに任せたい仕事があると、彼を陣中へ招いた。
「今、我が家臣を(上原城に)救援に向かわせておる。じきに辿り着く筈じゃ。
そこで高遠、其方も向かえ。諏訪の家臣ならば地には利があるだろう」
晴信は扇を取り出し、ばっと開く。
其処に描かれているのは、武田の家紋である四つ割菱。
高遠は、直ぐさま我が同志五十名を率いて向かうと返答する。
扇を仰ぐ晴信は、俯いている高遠の顔を覗き込んだ。
「頼むぞ、高遠」
高遠は目を背ける事なく、頷く。
そんな晴信の様子はまるで、人の奥底に眠る〈何か〉を探り出そうとしているかのよう。
晴信はまだ、疑っている。
俺の時と同じ、あくまで相手の器量諸々を見定めている段階。
ならば恐らく高遠のもとに、御付きとして誰かを付かせる筈だ。
(高遠頼継、彼と共に上原城へ向かうとなれば、誰が相応しいだろうか)
思考の末、俺は首を振る。
......いや、それらはきっと俺の役目ではないな。
未だ武田に仕えて日が浅い俺が、御家の事情を網羅しきれていない事は重々承知だろう。
俺の目の前には、眉間に皺を寄せる晴信の姿。
彼に問いかける為に身を乗り出そうとした、
その時である。
突如、身体中に悪寒が走る。
「っ......!」
驚く暇も与えず、複雑に絡み合う論理が無意識に脳裏で合わさり、一つの〈策〉がまるで泉から湧き出たように俺の頭に現れる。
《行くのは御前じゃ。高遠を使え。
高遠が此処へ来た今こそ、絶好の機会だ》
雑音が走り、途切れ途切れの声が響く。
途端に意識を埋め尽くす、文字の羅列。
それは、特定の文字列の繰り返し。
まずい、吐き出さなければ。
早く吐き出さなければ、『壊れてしまう』。
俺は無意識に、深く息を吸っていた。
「殿、私めを是非御連れ下され」
晴信は声の方を振り返る。
彼の目に映るのは、紛れもない〈俺〉。
月光が照らす晴信の赤き目が、鋭く光る。
「......何か策があるのか」
晴信の前に片膝をついた俺は、静かに彼を見上げる。
「は、虎胤隊を救い、かつ頼重殿を誘き出す策を。
必ずや、皆の前に頼重様を御連れ致しましょう」
「頼重を誘き出すだと?......ふん、面白い。
その目、よほどの自信があるようだな。
其方の策とやら、儂にも聞かせよ。晴幸」
俺は一度頷き、高遠の方を向く。
「突如申し訳ない、儂は山本晴幸と申す者。
高遠殿。儂の頼みを聞いては貰えぬだろうか?」
時々、頭が異常に冴える時がある。
俺の頭に突如として現れたのは、
恐らく誰も死なず、誰も殺さずして勝てる、
〈俺〉には到底思いつかないであろう、狡猾ともいえる策略である。
あぁ、やはり。
この感覚は、以前と同じ。
俺の中で、俺が殺されてゆく感覚。
徐々に己が何を話しているのかが分からなくなる。それはまるで、何者かに支配されているかのよう。
従わなければならない。語らなければならない。
次々に溢れ出す言葉が、俺を支配する前に。
為す術を無くした俺は、自我を失う寸前に悟る。
〈異物〉が再び、俺の身体をして現れたことを。
〈諏訪頼重の陣〉
自陣に居座る諏訪頼重の許に、男が現れる。
「伝令、城兵の既に半数以上を我らが討ち取っております」
「ふん、よほど苦しんでおる様じゃな」
伝令役の言葉に頼重はほくそ笑む。
既に兵は諸国から集まり始めている。
じきに、武田と対等な兵力が集まるだろう。
それまで戦力を削りつつ、我らは耐える。
それこそが典型的な諏訪家伝来の戦法だと、頼重は自覚していた。
されど、頼重は心から笑うことが出来ないでいる。
(武田とは盟友であった。
裏切った我等に怒りを示すのも無理はない)
此度の戦と二人(頼重と晴信)に関連する、取り去る事の叶わぬ〈弊害〉が、常に頼重の前に立ち開かっていたのだ。
此の戦は、元を辿れば自身の利己的な行為が生んだ無価値の産物。
しかし、頼重は武田に対し、頭を下げるべきではないと考えていた。
言い分や行為を正当化したい訳では無い。
ただ、今が潮時なのだと、常々そう思うのである。
それでも考え込んでしまうのは、武田への未練が残っているからなのか。
頼重は自身に問いかけ、首を振った。
起きてしまった事はどうしようもない。
少なくとも今、こんな様子を家臣に見せてしまっては、全体の士気に関わる。
本当は考えたくないだけなのではないか、そう言われれば多少は正当性を認める事になろう。
しかし、記憶の断片が脳内にこびりつき、
時折、容赦なく心を抉る。
それは、己を支配する罪悪感のせいか。
「ーーーっ」
頼重は頭を抱える。
どうして此処まで、記憶は自分の首を絞めようとするのか。
問いかけながらも、本当は分かっていた。
それはきっと、魔が差した自身への相応の天罰なのだと。
「殿っ!」
その時、再び頼重の許に転がり込んだ男に、頼重は直ぐ様、平然とした態度を装った。
「上原城に、敵の救援が来ております!」
「っ!」
平穏も束の間、頼重は至急城が見える場所へと赴いた。
信濃を吹く風は、昼間よりも強くなっている。
上原城は、相変わらず閑散としていた。
風に吹かれ、揺らめく火に照らされた旗が靡いているのが見える。
上原城を囲むのは、紛れもない武田の旗印。
「……」
頼重は目をこする。
早い、幾ら何でも早すぎる。
まさか、既に囲まれておるとでも言うのか?
頼重の想定では、武田が陣を立てた御射山から此処まで、二時間は掛かる筈だった。
しかし、未だ一時間も経っていない。
まさか、我らの動きが読まれていた?
そう思った次の瞬間、
一筋の閃光が、頼重の傍を通り抜ける。
「うぁっ!?」
「頼重様っ!!」
一瞬の出来事に、頼重は思わず腰を抜かす。
光は大きな音を立て、傍に立つ木に突き刺さった。
その正体に気付く頼重は、顔をしかめる。
「火矢か……っ!」
矢が刺さり、先端が燃えている。
それこそが閃光の正体。
飛ぶ方向からして、恐らく武田の何者かが、背後から上原城へ救援に駆けつけているのだろう。
「頼重様、此処は危のうございます!
急ぎ戦線を退いた方が宜しいかと......」
家臣の言葉を耳に、頼重は立ち上がる。
「あいわかった、桑原城じゃ、あそこに行こう」
桑原城は、上原城と同じく諏訪領内に存在する。
城へ辿り着いた頼重を待っていたのは、幾名の男達。
「頼重様、此方へ!」
諏訪家の家紋が描かれる旗印を背に差している。
頼重は安堵する。既に先回りをしてくれていた様だ。
「忝い」
頼重は流れるままに、男達に城内を案内される。
「廊下を進み、突当りに部屋がございます。
ひとまず其処に御隠れを。我らは直ぐに戦線へ戻ります」
そう言い残し、男達は去った。
頼重は薄暗さの中で、男たちの背中を見送る。
頼重の表情には、もはや迷いなど無かった。
頼重は歩き出す。そして考える。
幾ら動きがばれていたところで、もはや遅い。
時間は掛からない。いや、掛けはしない。
此処で、じっとしていれば良い。
事がうまく運べば、翌朝には勝負が決している。
頼重の心の内には、確信めいた何かが宿っていた。
こうして、彼は確信する。
〈諏訪家の勝利〉という結末で、終戦を迎えるのだと。
裏切りと心理、混迷を極める。
頼重の笑みの奥に宿るものは




