第二百一話 年初めの、軍議
変革の第6章、開幕です。
一五四八年、正月。
この時代に迷い込み、気が付けば十六年の歳月が流れていた。
二十一世紀の東京で、味の薄いコンビニ弁当を啜りながら
スマホの画面を眺めていた孤独な正月は、今や遠い前世の記憶だ。
甲斐の冬を包む冷気は、研ぎ澄まされた抜き身の刃のように鋭い。
だが、見上げた空は吸い込まれるほどに深く、澄み渡った冬の青に染まっていた。
「……晴幸様、箸が止まっておりますよ」
不意に、鈴を転がすような声が鼓膜を震わせた。
我に返り視線を落とすと、そこには正月らしく色鮮やかに彩られた煮物や、
湯気を立てる餅が並んでいる。
目の前に座る若殿が、心配そうに首を傾げていた。
「ああ、すまぬ。少し、考え事をしていてな」
「御家のことですか? 大変ですね……
せめて正月くらい、御殿様もお休みになればよろしいのに」
彼女は困ったように眉を下げて微笑むと、冷めかけた俺の椀に、
とろりとした温かい汁を注ぎ足してくれた。
祝言を挙げて半年。
彼女は、戦場と策謀に明け暮れる俺にとって、
文字通り「帰る場所」そのものだった。
俺という異物が、この喉元を常に刃で撫でられるような乱世で、
辛うじて正気を保っていられるのは、
間違いなくこの膳を挟んだ穏やかな時間があるからだ。
彼女の指先が触れる瞬間の熱だけが、俺を現実へと繋ぎ止めていた。
「……では、行ってくる」
「はい。行ってらっしゃいませ、旦那様。
今夜は、お身体が温まるものを用意してお待ちしております」
背中に投げかけられたその柔らかな言葉を、
薄い鎧のように身に纏い、俺は屋敷の門を潜った。
一歩外へ出れば、そこは弱肉強食の理が支配する世界だ。
俺は袴の紐を強く締め直し、穏やかな夫の顔を捨て、
冷徹な軍師のそれへと表情を切り替えた。
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武田の居城、躑躅ヶ崎館の大広間は、既に重々しい熱気に包まれていた。
板垣信方、甘利虎泰、飯富虎昌……
武田の屋台骨を支える猛将たちが、一分の隙もなく居並んでいる。
まずは主君への年始の挨拶、「御規式」が執り行われた。
「御館様、新年あけましておめでとうございまする。
本年も武田の御旗、いよいよ高く掲げられますよう、
我ら一丸となってお支えいたす所存!」
板垣が重臣を代表し、腹の底に響くような朗々とした声を放つ。
それに合わせ、俺や真田幸綱も含めた全員が、一斉に畳へ頭を垂れた。
「うむ。皆、大儀である」
上座に座る武田晴信が、手にした扇をパシリと膝で閉じた。
その乾いた音を合図に、広間の空気が一変する。
正月の華やぎは一瞬にして霧散し、鉄と血の臭いが混じる「戦の予感」が場を支配した。
「……さて、祝いの場はここまでじゃ。
正月早々、信濃の村上から不愉快な『年賀』が届いておる」
晴信の眼光が鋭く光る。
「北信濃の国人衆を糾合し、我が領土へ牙を剥く構えを察知した。
奴は冬の雪を障壁として使い、こちらの動きが鈍る春先を狙って
一気に叩くつもりであろう」
その言葉に、甘利が太い拳を膝の上で握りしめた。
「我らもそのために、この半年支度を整えておりました。
村上義清、一度は煮え湯を飲まされた相手。
今度こそ、その首を上げねば武田の面目は立ちませぬ」
「だが、相手は信濃きっての知略と武勇を持つ男じゃ」
板垣が厳しい表情で、広げられた地図の要衝を指し示した。
「奴の居城、葛尾城は険しき山を背負った不落の要塞。
正面からぶつかれば、こちらの被害も甚大。
何より、奴はこちらの兵站路を突く術を、執拗なまでに熟知しております」
沈黙が広間を支配する。
その重苦しい静寂を破ったのは、末席に座る真田幸綱だった。
「御館様、失礼ながら申し上げます。
村上の手の内、その裏の裏まで読み解くには、我らだけの知恵では足りませぬ……
あの男を、この場に呼ぶべきかと存じます」
「あの男とは、誰じゃ」
「はっ。近衛泰山殿にございます」
その名が放たれた瞬間、広間に雷が落ちたような動揺が走った。
「泰山だと!? 元は敵の間者頭ではないか!
そのような男を、神聖なる軍議に列するなど正気か!」
近衆たちの激昂を、晴信は片手を挙げて制した。
そして、その射抜くような視線を、じっと俺へと向ける。
「晴幸。お主はどう思う。
お主の村で、あの隠居の相手をしているのはお主であろう」
俺は居住まいを正し、膝を叩いて一歩前に出た。
泰山。俺が「未来から来た」という正体を知らぬまま、
この時代の理から外れた俺を面白がり、
唯一対等に語り合える怪物。
「泰山殿は……確かに劇薬にございます。
されど、猛毒こそが、時に死病を癒やす薬となることもございます。
村上の急所、その骨の継ぎ目に針を通すには、
あの者が持つ『裏の目』が必要かと存じます」
俺の言葉を聞き、晴信は口角を吊り上げてニヤリと笑った。
「面白い。
村上にとって、あやつはとうに死んだ人間のはず。
信方、すぐに向かいを出せ。
近衛泰山を、この軍議の席に引き摺り出すのだ」
「はっ!」
板垣の返事が響く。
重臣たちの不信と期待が混ざり合った視線が俺に刺さる。
その中には、板垣殿の、全てを託したような重厚な信頼も含まれていた。
俺は、今朝がた若殿に注いでもらった汁の温もりを、心の最も深い場所へ封じ込めた。
これから始まるのは、美辞麗句では語れぬ泥沼の戦いだ。
一五四八年、上田原。
そこで待ち受ける、武田家最大の惨劇を——。
そして、自分がその運命の渦にどう飲み込まれていくのかを、
今の俺はまだ、知らない。




