番外編EX6 受難、祝言前夜の乱!
祝言を明日に控えた、屋敷の一角。
そこはもはや戦場だった。
それも血の流れない、しかし胃に穴が開きそうな類の戦場だ。
「晴幸様! 諏訪の地酒がさらに三樽届きました!
どこに置けばよいですか!?」
「もう床が抜ける! 縁側の隅に積んでおいてくれ!」
俺は悲鳴に近い声を上げた。
数日前から、板垣殿や甘利殿、更には商人たちから「祝儀だ」と称して、信じられない量の酒が届けられていた。
甲斐の銘酒、どぶろく、さらには京から運ばれたという高価な酒まで。
「……なぁ、幸綱。
祝言というのは、こんなに酒が必要なものか?」
俺は、目の前で酒樽の山を検品している幸綱に助けを求めた。
「何を言っておる。
武田の祝言は『どれだけ飲ませたか』が主君の面目に関わる。
ほれ、この駿河の酒は庵原殿が『晴幸の喉を焼いてやる』と息巻いて送り込んできたものじゃ。
なに、毒味は済ませたから安心せよ」
「毒味って、ただ飲みたいだけであろう!」
幸綱はすでに顔を赤くして笑っている。
戦場での冷静さはどこへ行った。
そこに追い打ちをかけるように、ドタドタと騒がしい足音が響いた。
「晴幸様! 大変です!
若殿様の白無垢、帯の締め具合がどうしても決まらぬと、侍女たちが騒いでおります!」
飛び込んできたのは、なぜかパニックに陥っている作兵衛だ。
「それは女子陣に任せるしか……」
「何を仰ります!? 若殿様は『晴幸様がこの色を好むか不安だ』と仰って泣いておられます!
晴幸様が行って『最高に似合っている』と一喝してくだされ!」
「かような所に行けるわけがないであろう!!
禁制だぞ!其方が行けばよいではないか!!」
「私では意味ございませぬ!!
晴幸様が襖越しに叫ぶなり、文を投げるなりしてくだされ!!」
作兵衛が、俺の肩を掴んで前後に揺さぶる。
脳震盪が起きそうだ。
さらに、屋敷の隅では松尾泰山が、
届けられた鯛や野菜の山を前に、
嫌な音を立てて算盤を弾いている。
「……ほう。この鯛、少し鮮度が落ちておるな。
板垣の配下が値切られたか。
晴幸殿、わしが市場へ行って、最高級のものをふんだくってきてやろうか?
無論、手数料は祝儀として『後払い』でな」
「其方の『後払い』は返しきれぬ故結構だ! 頼むから静かに酒でも飲んでいてくれ!」
「かっかっか、冷たいのう。新郎は余裕がないようじゃ」
泰山は楽しそうに、山積みの酒樽から勝手に一升瓶を抜き取り、ラッパ飲みを始めた。
「山本晴幸、おるか!」
「もう、次から次へと何じゃ!?」
今度は、晴信様の側近が駆け込んできた。
「殿より伝言! 『明日の披露宴で披露する、お主の初夜を祝う歌を一首、今すぐ詠んで届けよ』とのこと!」
「……は?」
「殿は大変楽しみにされております!
間に合わねば、明日の酒をすべて酢に替えるとの仰せ!」
「あのぶらっく社長め……っ!!」
俺は頭を抱えた。祝儀の酒を全て酢に変えられてしまっては、たまったものではない。
酒の選定、若殿のメンタルケア、泰山の監視、そして主君の無茶振り。
現代で、納品日直前にトラブルが連発したプロジェクトリーダーの頃の記憶が蘇る。
「晴幸殿! 酒をこぼしましたぁ!」
「ああっ、そこは大事な袴が置いてあるのだぞ!」
「軍師殿、歌はまだか! 韻を考えろ、韻を!」
「晴幸様ぁ! 若殿様がさらにお悩みですぞー!!」
「……ああ、もう!
戦に出る方がよっぽど楽だ!!」
俺の叫び声は、夏の甲斐の空に虚しく響き渡った。
一五四七年、七月。 山本晴幸の人生で最も長く、最もドタバタした「決戦前夜」は、こうして更けていったのである。
次回より、第6章開幕




