番外編EX5 軍師の休日、夫の心得
閑話です。
軍師ならではの、悩みかもしれません。
祝言から数日が過ぎ、躑躅ヶ崎館には再び日常が戻りつつあった。
しかし、俺の心境だけは、どこかふわふわと落ち着かない。
現代にいた頃も独身を貫き、仕事と画面の中の歴史に没頭していた俺にとって、「所帯を持つ」という実感はあまりに未知の領域だった。
これから始まるであろう、血生臭い信濃侵攻。
その前に、俺はこの「結婚」という戦場において、どう立ち振る舞うべきなのか。
俺は、人生の先輩たちに意見を求めるべく、館を歩き回ることにした。
【一 板垣信方】
最初に捕まったのは、相変わらず生真面目な顔で
書類に目を通していた板垣殿だった。
「……大切にすべきこと、だと?そんなことは決まっておる」
板垣殿は筆を止め、真剣な眼差しで俺を見た。
「晴幸殿、それは『帰る場所を汚さぬこと』だ。
戦場では鬼となっても、門を潜れば一人の夫に戻れ。
己が汚れ仕事を引き受けているからといって、
その不機嫌を妻にぶつけるのは、
武士としてもっとも恥ずべきことよ」
「……耳が痛いです」
「はは、案ずるな。其方は考えすぎる癖がある。
たまには土産の一つでも買って帰り、何も語らずに茶でも飲むがいい。
それが誠実というものだ」
なるほど。
板垣殿の、揺るぎない「正妻への敬意」を感じる言葉だった。
【二 甘利虎泰】
続いて、訓練を終えたばかりの甘利殿に声をかけると、彼は豪快に笑い飛ばした。
「わはは! 軍師殿とて、女子の攻略には頭を悩ませるものよな!
良いか晴幸殿、女というのは、言葉よりも『行動』を見る生き物だ。
何かあれば、まずは黙って頷いておけ。
反論など時間の無駄よ」
「反論、ですか」
「そうだ。我らのような荒くれ者は、家の中ではただの居候と思えば気が楽だ。
主導権はすべて妻に預け、己はどっしりと構えていれば良い。
それこそが平穏の秘訣よ」
甘利殿の言葉からは、ある種の達観と、
家庭内での微妙な立場が透けて見えた。
【三 原虎胤】
「晴幸!!」
声をかける間もなく、原虎胤殿が巨大な岩のような体で迫ってきた。
娘の菊が俺たちの仲を羨んでいたこともあり、目が座っている。
「大切にすべきこと!? そんなものは決まっておる!
若殿を悲しませぬことだ!
もし泣かせるようなことがあれば、この虎胤、夜中に貴殿の枕元に立つぞ!
拙者が直々にだ!」
「……それは、もはや呪いですね」
「良いか、女子は宝だ!
磨いて、愛でて、感謝を絶やさぬこと!
分かったか!」
圧倒的な圧に押されたが、
虎胤の家族への愛の深さだけは、痛いほど伝わってきた。
【四 松尾(近衛)泰山】
一度領内に戻り、日陰の縁側で算盤を弾いていた泰山に声をかけると、彼は面倒そうに片目を上げた。
「なんじゃ、新婚の惚気を老人に聞かせに来たか?」
「いや……今後の心得を聞きに来た。
其方なら、もっと現実的な答えをくれるかと思ってな」
泰山は算盤を置くと、物思いに耽るかのように顎を触り、不敵な笑みを漏らした。
「大切にすべきこと、か……『隠し通すこと』じゃな」
「隠し通す?」
「策士の家など、嘘の礫でできているようなものよ。
お主がどれほど汚れた手をし、どれほど黒い夢を見ているか、
それを墓場まで持っていくのが夫の慈悲というもの……
すべてを分かち合おうなどと考えるな。それは甘えじゃ。
お主が地獄を背負う分、妻には綺麗な青空だけを見せておけ。
それができぬなら、策士など早々に廃業することよの」
泰山らしい、冷徹なまでの「影」としての矜持。
だがその瞳の奥には、どこか寂しげな色が混じっていた。
【五 武田晴信】
最後に訪れたのは、夕暮れの庭を眺めていた晴信の元だった。
齢二十六の若者に聞くのは少し恥ずかしい気もしたが、
「何やら皆に聞き回っておるようだな……よい、儂が言えることは一つ」
晴信は遠くの山を見つめ、少しだけ寂しげに、けれど確かな声で言った。
「戦をすれば、人は変わる。
儂も、お主も、望まずとも手が血に染まる……
その時、お主の瞳が濁っておらぬかを確認してくれるのは、鏡ではなく、妻の瞳だ。
そこに映る自分が、まだ笑えているか。
それを時折、確かめるだけでよい」
晴信様の言葉は、これまでの誰よりも重く、
優しく俺の胸に落ちた。
「お主を人として繋ぎ止めるのは、知略でも歴史でもない。
あの小さな家の、灯火なのだ。
それを絶やすな……それだけで、お主は儂のようにはならずに済む」
「……はっ、心得ました。
ぶらっく企業であろうと、その感性は大事なのですな、ありがとうございまする」
「ぶらっく……? また妙な言葉を。
さあ、帰るがよい。
お主の帰りを待つ者がおるのだからな」
俺は晴信に一礼し、家路を急いだ。
現代でも知らなかった「大切にすべきこと」。
それは、高度な心理学でも道徳でもなく、
ただ「明日もこの人の元へ帰る」という、
単純で、けれどこの乱世では何より困難な約束を
守り続けることなのだ。
小道を曲がると、我が家の窓から小さな明かりが漏れていた。
俺は一呼吸置いて、袴の埃を払い、笑顔を作る。
「只今戻った」
その声に応える優しい足音が聞こえてくる。
ただ、この瞬間の温もりだけは、絶対に手放さないと誓った。
次回も閑話が続きます。




