第二百話 新たな、旅立ち (第5章最終話)
祝言の喧騒も、泰山との密談も、そして昨夜の闇の中での対峙も、すべてがまるで遠い夢だったかのよう。
翌日の甲斐は、抜けるような青空に包まれていた。
早朝の露が乾ききった頃、俺は一人、村外れの小道を歩いていた。
眩しいほどの陽光が降り注ぎ、新緑の田畑からむせ返るような土の香りが立ち上る。
こんなにも穏やかな日差しの中で、あの声が響いた。
「……満足か、転生者よ」
路傍の石に腰掛けた男がいた。
眼帯を引き、体中に凄絶な死線の跡を刻んだ、本物の「山本晴幸」だ。
昨夜と同じ、俺という存在の『芯』から響く声がする。
だが、その姿は、夜の闇に溶け込む影ではなく、容赦なく降り注ぐ太陽の下に、鮮烈な輪郭をもって存在していた。
「……久方ぶりだな。見たか。儂の晴れ姿を」
「ふん、浮かれた気分で居座りおって。祝言だと。家督だと。俺の生涯に、そのような泥臭い幸福など一度として無かったぞ」
彼は一つ目を見開き、嘲るような笑みを浮かべた。 ただ深淵の底から見上げるような、そんな凪いだ達観が、この青空の下で一層際立っていた。
「お主は遂に、かの女子の手を取った。
それによって、儂が歩むはずだった血塗られた正史は完全に壊れた。
お主という異物が、俺の記憶を、俺の魂の居場所を、端から喰い破っていったのだ。
だがな、晴幸……その代償は、
お前が考えているよりもずっと、高くつくぞ」
本物の晴幸は、眩しそうに空を見上げる俺の視線から逃れるように、ただ田畑の彼方を見つめたまま語り続ける。
「信濃を見ろ。そこに座る村上義清は、
お主が知る歴史の頁から剥がれ落ちた怪物だ。
あやつはお主と同じ、この時代の『外側』から来た毒を知っている。
お前が掴んだその温もり、家族、義清はそれを、お前の喉元を掻き切るための最も効率的な『刃』として使うだろう。
お主が愛を語るたび、お主が守ろうとするたびに、あいつはそれを無慈悲に粉砕する」
本物がゆっくりと立ち上がり、日差しの中で俺の目の前まで歩み寄った。
その様子が、夏の清々しい空気を一瞬で変質させる。
「お主はもはや孤独ではない。
故にこれからより悩み、より苦しむことになるであろう。
儂という『記憶』が教える道筋は、お前の抱えた『情』によって全て狂わされる。
味方を救うために策を捨て、女を守るために大義を汚す。
その度に、お主の心は引き裂かれ、
己の甘さを呪い、血の涙を流し、独り夜の底で震えることになる。
それが、平穏という禁忌を犯した者が背負うべき『業』じゃ」
俺は何も言えず、その一つ目を見つめ返した。
かつて見えた、己自身の終焉。
その瞳の奥には、彼が辿るはずだった最期――死に様が、静かに揺らめいているように見えた。
「だが、もし……」
本物の晴幸は、不意に言葉を切り、わずかに口角を上げた。
「もしお前が、その泥濘のような苦しみの中で、
一度も心を折らずに立ち続けられるならば……
その先にある、儂が見ることのできなかった景色が見えるだろう。
武田晴信が、古臭い因縁や病魔をすべて振り払い、
あの日ノ本の頂から天下を俯瞰するその瞬間を。
お主という異物が、歴史をその手で捩じ伏せ、主君を孤独な頂から救い出す、
そのような世は、儂には作れぬ。
お主にしか作れぬはずだ。
本物の晴幸の姿が、夏の陽炎のように揺らぎ始める。
彼は最後の一歩を詰め、俺の耳元で囁いた。
「征け。せいぜい、無様に、美しく、抗ってみせろ。
お主の苦悶こそが、儂がこの世に生きた、最後の証になるのだから」
その言葉を最後に、気配はふっと消えた。
田畑を吹き抜ける風が、俺の頬を撫でていく。
真夏の太陽だけが、すべてを見下ろすように輝いていた。
俺は深く息を吐き、静かに、そして力強く拳を握りしめた。
悩みも、苦しみも、上等である。
この時代で、若殿と、あの主君と共に、
歴史の檻を突き破る。
見ておれ、山本晴幸。
ここからが、真の道だ。
俺は前を向き、また一歩歩み出す。
俺の歩む道に、新しい朝の光が降り注いでいた。
そんな俺は、約10ヶ月後
己の太刀で、人を殺すことになる。
俺が、心から信頼していた、あの男を。
第5章 完
これにて第5章完結です。ありがとうございました!
私情でバタバタしており、今章の完結までに6年要してしまいました......苦笑
第6章では遂に、村上義清との全面戦争へと突入していきます。
そこで告げられる真実と、晴幸(俺)の選択。
俺は、誰かを殺した。
誰を殺したのか。
お見逃しなく。
その前に、閑話を少々。




