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武田の鬼に転生した歴史嫌いの俺は、スキルを駆使し天下を見る  作者: こまめ
第5章 十日間の、災厄 (1547年 3月〜)
203/210

第百九十八話 家族、帰る場所

注意


最後まで、目を離されませぬように。

 翌朝、目を覚ました俺を待っていたのは、昨日までの刺すような冷気ではなく、春の訪れを告げる柔らかな陽光であった。


 鶏の声は相変わらず屋根を叩いていたが、それはもう、俺を悪夢へ引き戻す合図ではなかった。畳の芯に残る冷えも、不思議と心地よい現実感として足裏に伝わってくる。


 「……良い朝だ」


 独り言と共によっと身を起こすと、枕元に昨夜の泥を落とし、丁寧に畳まれた羽織が置かれていた。

 指先で触れれば、微かに若殿が焚き染めている香の匂いがした。主である若殿が、夜通し掛けて一介の軍師の衣を手入れしてくれたのだろう。

 俺はその献身を肌に纏い、今朝は苦い茶ではなく、透き通った水で喉を潤した。五臓六腑に染み渡るその冷たさが、生きている実感を強く呼び覚ます。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 「さあ、行くか。若殿」  

 「はいっ!」


 市へ向かう道中、山道には若葉の匂いが満ちていた。    

 昨日の審問での噎せ返るような血の匂いや、泰山の首筋の白さ、そして晴信様の魂を削るような慟哭。

 それらは決して消えることのない痣として俺の心に残っている。

 だが、眩い陽の光に照らされる森の色彩の中に、それらも静かに溶け込んでいくような気がした。


 俺の数歩後ろを、若殿が歩いている。    

 彼女は、俺が昨日持ち帰った目に見えぬ「心の傷」を、壊れ物の如く気遣うように、付かず離れずの距離を保っていた。

 時折風が吹くたびに、彼女の装束がさらさらと鳴り、その音が俺をこの現世うつしよに繋ぎ止めてくれる。


 「若殿、市に行く前に、其方に見せたいものがあるのじゃ」

 「見せたいもの、ですか?」


 そう言い、俺は次の曲がり角で、賑わう市とは逆の方面へと足を踏み出した。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 「どうじゃ、美しいだろう」

 「うわあ……! これは、絶景でございますね!」


 山道を抜け、俺は彼女を連れて、村の外れにある小高い丘へと登った。

 そこは、甲斐の山々が一望できる場所。かつて幸綱と初めて会った時、共にこの国の行く末を語り合った場所でもある。


 眼下には荒川の清流が陽光を弾いて銀細工のようにきらめき、遠くには雪を頂いた富士の嶺が、どこまでも澄み渡る青空にその神々しい輪郭を刻んでいる。

 遮るもののない春の風が、俺たちの間を吹き抜けていった。


 俺は足を止め、広大な甲斐の景色を見渡した。    この美しくも残酷な土地を、景色を、命を散らした泰山も、孤独な頂に立つ晴信も、同じように見つめているのだろうか。


 「……晴幸殿?」


 若殿が、不思議そうに俺の隣に並んだ。    

 彼女の横顔を、鮮やかな朝の光が照らし、その瞳には吸い込まれるような青空が写っている。  

 俺はあえて、若殿の方を見なかった。

 見れば、決意が揺らぎそうだったからだ。





 「若殿……儂は、この国が好きじゃ。

  この荒々しくも美しい甲斐の山河を、愛おしいと思うておる」




 目前の景観を見つめたまま、俺は絞り出すように言葉を重ねた。


 「されど、この国のやり方は、時折ひどく恐ろしくなる。

  昨日、儂が泰山に向けて刀を振りかぶった時……

  儂の中にある『人としての芯』が、音を立てて壊れていくのが分かった。

  あのまま誰かを殺し、武田の駒として心を殺してしまえば、

  二度と俺という人間には戻れなくなるのではないか。

  それが何よりも怖かったのじゃ」


 若殿は何も言わず、ただ俺の言葉を全身で受け止めるように、静かに耳を傾けている。


 「昨日の儂は、もう此処へは戻れないかもしれないと思うた。

  暗い淵に沈み、魂を失う寸前であった。

  だが、其方が待っているあの囲炉裏の火を、あの山菜の汁の温かな匂いを、

  不器用ながらも儂を案ずる其方の声を思い出したとき……

  儂は、もう一度、一人の人間として此処に立ちたいと願った。

  誰の道具でもない、山本晴幸という一人の男として、

  この甲斐の地で生きていこうとな」


 それが例え、時代を隔てた異邦人であったとしても、この想いだけは真実だ。

 俺は遂に彼女の方を向き、その小さくも頼もしい肩に両手を置いた。



 「儂には、誇れるような確かな出自も、この地に根ざした古い繋がりもない。

  俺は空っぽだ。だがあの地獄を、あの血の海を乗り越え、ようやく分かったことがある……

  儂がこの手で守り抜きたいものは、武田の掲げる覇道でも、

  誰かの描いた盤面の上での勝利でもない。

  其方と共に笑い、共に飯を食い、共に眠る。

  そんな、何でもない、けれど替えの利かぬ細やかな日常でござる」



 甲斐の山々から吹き下ろす力強い風が、彼女の髪を激しく揺らす。

 俺は意を決して、彼女の潤んだ瞳を、逸らすことなくまっすぐに見つめた。














 「若殿。

  儂と、祝言を挙げてほしい。

  其方を誠の家族として、儂の人生に迎えたいのだ。

  これから先、嵐が吹き荒れようとも、儂が其方の盾となり、杖となろう。

  この景色を……これから先に見るすべての景色を、

  其方と二人で、並んで見ていたいのだ」

















 一瞬、時が止まったかのようだった。      

 風の音さえ消え、世界には俺と彼女の二人しかいないような錯覚に陥る。  

 やがて、若殿の瞳に、みるみるうちに熱い涙が溜まっていった。


「……晴幸殿……」


 彼女の唇が震え、堰を切ったように涙が頬を伝い落ちた。    

 それは、昨夜見せた静かな、痛みを堪える涙とは違う。

 凍てついた大地が春の陽光で解けるような、心の底から溢れ出した《喜び》の雫だった。




 「……はいっ、はい……!

  私の方こそ、願ってもないことにございます……っ!

  昨日、貴方様がお帰りになった時、そのお背中があまりに寂しく、遠くて……

  《どこか遠い空へ消えてしまわれるのではないか》と、そればかりが恐ろしくて、

  生きた心地がしなかったのです……」




 彼女は声を詰まらせ、泣き笑いのような、最高に美しい表情で俺の胸に飛び込んできた。



 「嬉しい……!

  貴方の隣で、この景色を、明日も、十年先も、

  命が尽きるその時まで見られるのなら……

  私は、それだけで、他には何も要りませぬ……っ」



 若殿は俺の羽織を、その指が白くなるほど強く掴み、子供のように声を上げて泣いた。  

 俺は、震える彼女の背中を、割れ物に触れるような慈しみと、

 決して離さないという決意を込め、力強く抱きしめた。    


 腕の中に伝わる、小さくも確かな鼓動。    

 目の前に広がる、美しくも険しい甲斐の絶景。

 昨日、俺が魂を削り、泥に塗れて守り抜いたものは、天下への足掛かりなどではない。

 今、俺の胸の中で泣いている、この確かな温もりだったのだ。



 「……さあ、行こう。

  其方の涙を拭う、一番良い布を選ばなくては。

  それに、其方に似合う至高の品を、市で片っ端から探すと決めているのだ。

  覚悟するのだぞ」



 俺が少しおどけて優しく語りかけると、彼女は袖でゴシゴシと涙を拭い、

 照れくさそうに、けれど今までで一番幸せそうな笑みを浮かべて頷いた。








 二人の影が、春の陽だまりの中で溶け合うように一つに重なり、市へと続く道をゆっくりと歩み出す。



  腰に差した刀は、もう昨日ほど重くは感じなかった。    

 それは人を斬るための凶器ではなく、彼女との明日を、

 このささやかな幸せを切り拓き、守り抜くための、

 誓いの重さへと、変わっていたからだ。























































































































































山本晴幸

ツギハギの幸福に溺れ

遂に『禁忌』に触れてしまった


もはや、帰還(・・)の道は永久に鎖された

お前の知る未来も、帰るべき場所も、

今この瞬間に、消滅した


精々、その温もりに縋って死ぬがいい。

お前はもう、二度と元の時代には、戻れぬのだから
















それは、神の御技か

それとも

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