第百九十八話 家族、帰る場所
注意
最後まで、目を離されませぬように。
翌朝、目を覚ました俺を待っていたのは、昨日までの刺すような冷気ではなく、春の訪れを告げる柔らかな陽光であった。
鶏の声は相変わらず屋根を叩いていたが、それはもう、俺を悪夢へ引き戻す合図ではなかった。畳の芯に残る冷えも、不思議と心地よい現実感として足裏に伝わってくる。
「……良い朝だ」
独り言と共によっと身を起こすと、枕元に昨夜の泥を落とし、丁寧に畳まれた羽織が置かれていた。
指先で触れれば、微かに若殿が焚き染めている香の匂いがした。主である若殿が、夜通し掛けて一介の軍師の衣を手入れしてくれたのだろう。
俺はその献身を肌に纏い、今朝は苦い茶ではなく、透き通った水で喉を潤した。五臓六腑に染み渡るその冷たさが、生きている実感を強く呼び覚ます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「さあ、行くか。若殿」
「はいっ!」
市へ向かう道中、山道には若葉の匂いが満ちていた。
昨日の審問での噎せ返るような血の匂いや、泰山の首筋の白さ、そして晴信様の魂を削るような慟哭。
それらは決して消えることのない痣として俺の心に残っている。
だが、眩い陽の光に照らされる森の色彩の中に、それらも静かに溶け込んでいくような気がした。
俺の数歩後ろを、若殿が歩いている。
彼女は、俺が昨日持ち帰った目に見えぬ「心の傷」を、壊れ物の如く気遣うように、付かず離れずの距離を保っていた。
時折風が吹くたびに、彼女の装束がさらさらと鳴り、その音が俺をこの現世に繋ぎ止めてくれる。
「若殿、市に行く前に、其方に見せたいものがあるのじゃ」
「見せたいもの、ですか?」
そう言い、俺は次の曲がり角で、賑わう市とは逆の方面へと足を踏み出した。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「どうじゃ、美しいだろう」
「うわあ……! これは、絶景でございますね!」
山道を抜け、俺は彼女を連れて、村の外れにある小高い丘へと登った。
そこは、甲斐の山々が一望できる場所。かつて幸綱と初めて会った時、共にこの国の行く末を語り合った場所でもある。
眼下には荒川の清流が陽光を弾いて銀細工のようにきらめき、遠くには雪を頂いた富士の嶺が、どこまでも澄み渡る青空にその神々しい輪郭を刻んでいる。
遮るもののない春の風が、俺たちの間を吹き抜けていった。
俺は足を止め、広大な甲斐の景色を見渡した。 この美しくも残酷な土地を、景色を、命を散らした泰山も、孤独な頂に立つ晴信も、同じように見つめているのだろうか。
「……晴幸殿?」
若殿が、不思議そうに俺の隣に並んだ。
彼女の横顔を、鮮やかな朝の光が照らし、その瞳には吸い込まれるような青空が写っている。
俺はあえて、若殿の方を見なかった。
見れば、決意が揺らぎそうだったからだ。
「若殿……儂は、この国が好きじゃ。
この荒々しくも美しい甲斐の山河を、愛おしいと思うておる」
目前の景観を見つめたまま、俺は絞り出すように言葉を重ねた。
「されど、この国のやり方は、時折ひどく恐ろしくなる。
昨日、儂が泰山に向けて刀を振りかぶった時……
儂の中にある『人としての芯』が、音を立てて壊れていくのが分かった。
あのまま誰かを殺し、武田の駒として心を殺してしまえば、
二度と俺という人間には戻れなくなるのではないか。
それが何よりも怖かったのじゃ」
若殿は何も言わず、ただ俺の言葉を全身で受け止めるように、静かに耳を傾けている。
「昨日の儂は、もう此処へは戻れないかもしれないと思うた。
暗い淵に沈み、魂を失う寸前であった。
だが、其方が待っているあの囲炉裏の火を、あの山菜の汁の温かな匂いを、
不器用ながらも儂を案ずる其方の声を思い出したとき……
儂は、もう一度、一人の人間として此処に立ちたいと願った。
誰の道具でもない、山本晴幸という一人の男として、
この甲斐の地で生きていこうとな」
それが例え、時代を隔てた異邦人であったとしても、この想いだけは真実だ。
俺は遂に彼女の方を向き、その小さくも頼もしい肩に両手を置いた。
「儂には、誇れるような確かな出自も、この地に根ざした古い繋がりもない。
俺は空っぽだ。だがあの地獄を、あの血の海を乗り越え、ようやく分かったことがある……
儂がこの手で守り抜きたいものは、武田の掲げる覇道でも、
誰かの描いた盤面の上での勝利でもない。
其方と共に笑い、共に飯を食い、共に眠る。
そんな、何でもない、けれど替えの利かぬ細やかな日常でござる」
甲斐の山々から吹き下ろす力強い風が、彼女の髪を激しく揺らす。
俺は意を決して、彼女の潤んだ瞳を、逸らすことなくまっすぐに見つめた。
「若殿。
儂と、祝言を挙げてほしい。
其方を誠の家族として、儂の人生に迎えたいのだ。
これから先、嵐が吹き荒れようとも、儂が其方の盾となり、杖となろう。
この景色を……これから先に見るすべての景色を、
其方と二人で、並んで見ていたいのだ」
一瞬、時が止まったかのようだった。
風の音さえ消え、世界には俺と彼女の二人しかいないような錯覚に陥る。
やがて、若殿の瞳に、みるみるうちに熱い涙が溜まっていった。
「……晴幸殿……」
彼女の唇が震え、堰を切ったように涙が頬を伝い落ちた。
それは、昨夜見せた静かな、痛みを堪える涙とは違う。
凍てついた大地が春の陽光で解けるような、心の底から溢れ出した《喜び》の雫だった。
「……はいっ、はい……!
私の方こそ、願ってもないことにございます……っ!
昨日、貴方様がお帰りになった時、そのお背中があまりに寂しく、遠くて……
《どこか遠い空へ消えてしまわれるのではないか》と、そればかりが恐ろしくて、
生きた心地がしなかったのです……」
彼女は声を詰まらせ、泣き笑いのような、最高に美しい表情で俺の胸に飛び込んできた。
「嬉しい……!
貴方の隣で、この景色を、明日も、十年先も、
命が尽きるその時まで見られるのなら……
私は、それだけで、他には何も要りませぬ……っ」
若殿は俺の羽織を、その指が白くなるほど強く掴み、子供のように声を上げて泣いた。
俺は、震える彼女の背中を、割れ物に触れるような慈しみと、
決して離さないという決意を込め、力強く抱きしめた。
腕の中に伝わる、小さくも確かな鼓動。
目の前に広がる、美しくも険しい甲斐の絶景。
昨日、俺が魂を削り、泥に塗れて守り抜いたものは、天下への足掛かりなどではない。
今、俺の胸の中で泣いている、この確かな温もりだったのだ。
「……さあ、行こう。
其方の涙を拭う、一番良い布を選ばなくては。
それに、其方に似合う至高の品を、市で片っ端から探すと決めているのだ。
覚悟するのだぞ」
俺が少しおどけて優しく語りかけると、彼女は袖でゴシゴシと涙を拭い、
照れくさそうに、けれど今までで一番幸せそうな笑みを浮かべて頷いた。
二人の影が、春の陽だまりの中で溶け合うように一つに重なり、市へと続く道をゆっくりと歩み出す。
腰に差した刀は、もう昨日ほど重くは感じなかった。
それは人を斬るための凶器ではなく、彼女との明日を、
このささやかな幸せを切り拓き、守り抜くための、
誓いの重さへと、変わっていたからだ。
山本晴幸
ツギハギの幸福に溺れ
遂に『禁忌』に触れてしまった
もはや、帰還の道は永久に鎖された
お前の知る未来も、帰るべき場所も、
今この瞬間に、消滅した
精々、その温もりに縋って死ぬがいい。
お前はもう、二度と元の時代には、戻れぬのだから
それは、神の御技か
それとも




