第百九十七話 安堵、これから
館を出て村へと続く山道は、吸い込まれるような闇に包まれていた。
作兵衛が掲げる提灯の灯りが、足元の頼りない土をぼんやりと照らす。
先程までの怒号と涙、そして鋼が立てた不気味な音が嘘のように、夜の森は静かだった。
だが、腰刀の重みだけが、あそこで起きたことが紛れもない現実であったと告げている。
「……晴幸様、足元がふらついておりますぞ」
作兵衛の気遣わしげな声に、俺は「問題ない」と短く返した。
四日前、井戸端で再会した作兵衛から「泰山様の真意」を聞かされた時、俺は泰山という男の冷徹なまでの信頼に震えた。
『儂は、山本晴幸という男を信じておるのだ』。
その言葉があったからこそ、俺は今日、あの盤面で泰山に刃を向けることができた。
だが、振り下ろそうとした瞬間のあの重みは、俺の魂を真っ二つに引き裂いた。
やがて、見慣れた屋敷の灯りが見えてくる。
今朝、俺が「表へ出るな」と命じ、苦い茶を飲み下しながら出立した場所だ。
「……ただいま、戻った」
重い戸を開けると、土間の奥からパチパチと爆ぜる囲炉裏の音が聞こえ、ばたばたとした足音を聞く。
「晴幸殿......!」
「......若殿、心配かけて済まなかった」
若殿は泥だらけで、まるで魂をどこかに置いてきたような俺の顔を見て、硬直する。だが、それ以上は何も問わず、静かに火の傍へ促した。
「直ぐにお風呂を入れます、夕餉はその後に致しましょう。作兵衛さんも、食べていくでしょう?」
「はい、喜んで!」
作兵衛が無理に明るい声を出す。
俺は崩れ落ちるように座り込んだ。
今朝、羽織の紐を強く結び直し、彼女に向けて約束した。あの時の俺は、まさか自分がこれほどまでにボロボロになるとは思っていなかった。
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無感情のまま風呂に浸かった俺は、ゆっくりと息を吐く。
上がった頃には、とうに夕食の準備が完了していた。
俺に差し出されたのは、山菜が多く入った汁物だった。湯気が立ち上り、味噌の香りが鼻腔をくすぐる。
一口、汁を啜る。 じわりと熱が喉を通り、胃に落ちていく。
それは、泰山が言った「演技」でもなく、幸綱が言った「理」でもない。
俺がこの時代で、彼女と共に培ってきた「生」の味だ。
ふと、涙が溢れる。
俺は咄嗟に俯き、表情を見られまいと振る舞った。
食事の間、作兵衛は俺の様子を窺いながら、泰山が釈放されたことや、館の様子を断片的に、明るく話していた。
若殿はそれを聞きながら、時折、俺の手の震えをじっと見つめていたようだった。
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「辱い。とても美味しゅうございました。
それでは、晴幸殿。本日はゆっくりお休みくだされ」
夜が深まり、作兵衛はそう言い残し帰路についた。
屋敷の中に残ったのは、消えかけた囲炉裏の残り火と、俺たち二人だけだった。
「寝ましょうか」
若殿に促され、俺達は隣り合わせに敷かれた布団に潜り込んだ。
暗闇の中、衣が擦れる音だけが響く。
今朝、ここで目覚めた時、まだ俺の手は「人を殺そうとした手」ではなかった。
俺は仰向けのまま、天井の闇を見つめた。
瞳を閉じれば、今でも泰山の白い首筋が、網膜の裏側に焼き付いている。
「……若殿」
「はい」
「今日、儂は……あの者を殺そうとした」
「……泰山殿、のことですね」
「今朝、作兵衛から聞いた。泰山殿は、俺を信じてあえて自分を疑わせる盤面を作ったのだと。
儂はその信頼に応えるために……俺という人間を殺し、刀を振りかぶった」
泰山は、己の容疑を白に返してくれることを、望んでいた。
それは、きっと嘘だった。
初めから、泰山は、俺に斬られるつもりだったのだ。
布団の中で、声が、微かに震える。
「晴信様が止めてくれなければ、儂は今頃、自分ではない別の『化物』になっていた……俺は、やはり弱かった。
幸綱には、その弱さに救われたと言われたが、儂には、己がもう元の己自身だとは、どうしても思えぬ」
その時、隣から、柔らかな温もりが近づいてきた。
若殿の手が、俺の泥を落としたはずの、それでもまだ汚れを感じる手を、そっと包み込んだ。
「晴幸殿。貴方は今朝、『糸の端を掴みに行く』と言いましたね……」
「......ああ」
「貴方が掴んできたのは、泰山殿の命ではなく、御館様の心と、誠の貴方様自身だったのではないですか?」
彼女の声は、今朝の凛とした強さを残したまま、深い慈しみを湛えていた。
「貴方が今日、その手で刀を振りかぶり、そして苦しみ戻ってきた……それだけで、十分です。
私は、その苦しみを知っている、貴方の隣にいたいのですから」
それだけは、決して忘れるな。
若殿から、そう告げられた気がした。
しばらくの沈黙の後、俺は彼女の方へ顔を向けた。
みっともない表情だったかもしれない。
それでも、出立の間際に彼女が見せた、目が少しだけ輝いた瞬間を思い出しながら、俺は口を開いた。
「……若殿」
「はい」
「今朝、約束したな。……明日、共に市へ行こうと」
「……はい」
「明日、其方に伝えたいことがあるのだ。大事な話が」
それは、俺が心に決めていたこと。
九日間の休暇の間、ずっと喉の奥に仕舞い込んでいた想い。
人を殺すための智慧ではなく、この温もりを守るために、俺の命を使うという誓い。
若殿は、何も言わなかった。
ただ、俺が何を言おうとしているのかを、彼女は全て察していた。
言葉にせず、ただ暗闇の中で。
俺の手に自分の手を重ね、静かに頷いた。
「……ええ。楽しみにしております、晴幸殿」
彼女の温もりに包まれながら、俺はゆっくりと目を閉じた。
泰山の「演技」は終わった。 そして、俺という男の、本当の生が、明日からまた始まるのだ。
明日、鶏の声が屋根を叩く時、俺はもう、「嫌な朝」だとは思わないだろう。
深い、深い眠りが、俺を静かに、包み込んでいった。




