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武田の鬼に転生した歴史嫌いの俺は、スキルを駆使し天下を見る  作者: こまめ
第5章 十日間の、災厄 (1547年 3月〜)
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第百九十六話 審問の、後

 その後のことを、俺はあまり覚えていない。


 完璧だったはずの詰みの盤面が、主君の涙という「計算外の熱」によって砕け散った、あの瞬間。

 張り詰めていた俺自身の精神もまたぷつりと糸が切れたように、白濁した意識の淵へと沈んでいったのだろう。


 遠くで、晴幸の名を呼んでいた気がする。  

 板垣や甘利の、戸惑いを含んだ低い囁き。  

 泰山の手を引き、支えるようにして奥へと連れて行く足音。  

 そして、縛めを解かれた泰山が、最後に一度だけ、抜け殻のようになった俺へ向けた言葉。


 それらすべてが、薄い膜の向こう側の出来事のように、ひどく曖昧で、現実味を欠いていた。



 気づけば、広間には誰もいなくなっていた。



 開け放たれた門から差し込む陽光は、いつの間にか燃えるような朱色に染まっている。  

 西日に照らされた地の上には、激しい審問の痕跡など何一つ残っていない。

 ただ、俺が手から落としたあの刀だけが、夕闇に紛れようとする鋼の冷たさを湛えて、転がっていた。


 「…...はぁ......っ」


 指先に感覚が戻り、肺に空気が入り、激しい震えが襲ってくる。  

 俺は、この手で、人を殺そうとした。  

 いや、殺さなければならないと、自分を追い詰めていたはずだった。    

 もし晴信が止めなければ、もしあの咆哮が広間を裂かなければ......今頃、この地は泰山の血で汚れ、俺という人間は、かつていた世界の自分とは決定的に違う化物(・・)に成り果てていた。


 俺は這うようにして刀を掴み、震える手で鞘に収めた。カチリ、と鳴った乾いた音が、静まり返った広間に不気味なほど響き渡る。    

 重い。腰に佩いた刀が、まるで自分の犯した罪の重さそのものであるかのように、ずしりと脇腹に食い込んだ。

 力が抜け、立ち上がることもできず、ただ薄暗くなっていく空を仰ぎ、何度も、何度も、浅い呼吸を繰り返した。


 晴信は泰山を生かした。策を捨て、情を選んだ。

 それは武田にとって正解だったのか。それとも、破滅への一歩だったのか。

 歴史を知らない俺には、もう、何も分からなかった。


 その時だ。


 「……見事な引き際だな。あるいは、見事な幕開け、と言うべきか」


 静寂を縫うようにして、静かな声が届いた。

 背後から現れたのは、一人の男。

 この騒動の最中、どこで見ていたのか、あるいはすべてを予見していたのか。

 夕闇の中で、その切れ者の瞳を細め、彼は俺を見下ろしていた。


「……ゆきつな、か」


 掠れた俺の声に、真田幸綱は、いつもの食えない笑みを微かに浮かべる。


 幸綱は音もなく俺の傍らまで歩み寄ると、そのまま無造作に、冷え始めた地の上に腰を下ろした。

 彼の手には、いつものようにどこか飄々とした空気が纏わりついているが、その双眸だけは、夕闇のなかで獲物を狙う鷹のように鋭く光っている。


「……見ていたのか、全部」


 絞り出すような俺の問いに、幸綱は小さく肩を竦めた。


 「すべて、とは言わん。だが、影から見ておったのは確か。

  少なくとも、此処から溢れ出た御館様の絶叫を耳にして、何が起きたか察せぬほど某は鈍くはない。

  それにしても、晴幸殿。貴殿が泰山殿に刀を振りかぶるとはな。意外だった、と言えば嘘になるが、同時にお主の魂が悲鳴を上げる音まで聞こえてくるようだったぞ」


 幸綱はそう言うと、俺の腰にある刀を顎で示した。


 「どうだ。鉄の味は。人を斬ろうとした者の腕には、その重みが一生消えぬ染みのように残る」


 「……其方は......人を斬ったことがあるのか」

 「......」


 俺の問いに、幸綱は答えない。それこそが答えだった。

 指先の震えが止まらない。目を閉じれば、今でも泰山の白い首筋が、網膜の裏側に焼き付いている。

 現代という温室で育った俺にとって、あの瞬間は文字通り、自分の「人間性」を賭けた博打だった。


 「泰山殿は、死ぬことで己の策を完成させようとした。それはこの乱世において、最も美しく、最も正しい軍師の幕引きじゃ……されど」


 幸綱は、朱色から紫へと変わりゆく空を見上げた。


 「晴信は、その美しさを踏みにじった。あの方は、勝利ということわりを捨て、泰山という一人の男を拾い上げた……これは戦国大名として、致命的な失策と言える。板垣殿も甘利殿も、表向きは従ったが、その心中は穏やかではあるまい」


 「……やはり、其方もそう思うか」


 「普通ならばな。だが、晴幸殿、お主が始めたことだ。泰山殿を『餌』として引きずり出し、証拠を突きつけ、究極の選択を御館様に強いた。

  お主がいたからこそ、あの方は、あの方の中に眠っていた『人としての情』を爆発させることができた。冷徹な覇者ではなく、血の通った一人の男として、あの方は泰山殿を繋ぎ止めた。

  某はそれが、決して間違いだとは思わぬ」


 幸綱の言葉は、冷たく、しかしどこか温かく俺の胸に刺さった。  


 俺がやってきたことは、歴史を壊すことだったのかもしれない。

 本来、泰山はこの場所で死ぬべきだったのかもしれない。

 だが、俺の中に残っている現代の倫理が、どうしても彼を死なせることを拒んだのだ。


 「俺は……弱かった、あそこで、泰山殿を斬れなかった。彼に『殺してくれ』と頼まれ、それが策を完成させる唯一の道だと分かっていた。されど、結局、儂は臆病であった」


 自嘲気味に呟いた俺に、幸綱はふっと短く笑った。


 「臆病者、結構ではないか!

  人を殺すことに震え、躊躇う心を捨てきれぬ男、儂も然り、そのような男が一人くらい御館様の側にいなければ、武田はただの血に飢えた獣の群れに成り下がるものじゃ。

  ……晴幸殿、貴殿は泰山殿を殺せなかったのではない。生かすために、その刃を、自らの魂に振り下ろしたのだ。

  その傷の痛みを知る者だけが、これから泰山殿と共に、この乱世の毒を薬に変えることができる」


 幸綱は立ち上がり、装束の埃を軽く払った。


 「案ずるな。御館様も、泰山殿も、貴殿のその『弱さ』に救われたのだ。

  さあ、顔を上げろ。いつまでもそんな幽霊のような顔をしていては、迎えに来た者が腰を抜かすぞ」


 「迎え……?」


 俺が聞き返した、その時。


 「――晴幸様! 晴幸様はいらっしゃいますか!」


 静まり返った廊下の奥から、聞き覚えのある、どこか野暮ったく、けれど心底安心させる声が響いた。   お世辞にも上品とは言えない足音。現れたのは、作兵衛だった。    

 彼は大広間の入り口で俺の姿を見つけると、文字通り、崩れ落ちるように安堵の溜息を漏らした。その額には汗が光り、着物は道中の急ぎようを物語るように乱れている。


 「ああ……よかった。よかった……。

  なかなかお戻りになりませんでしたので、もしや何かあったのではないかと……」


 作兵衛は俺の側まで駆け寄ると、俺がまだ地に座り込んでいるのを見て、慌ててその太い腕を差し出した。


 「さあ、お帰りになりましょう。今夜は若殿様が、晴幸様の大好物である、山菜の汁を作って待っておりますぞ」


 作兵衛の、温かくて節くれ立った大きな手が、俺の泥だらけの手を包み込んだ。  

 その瞬間、俺を縛り付けていた冷たい空気が、ふっと溶けていくような感覚があった。  

 若殿は、俺が人を殺そうとしたことも、この広間でどんな魂の削り合いがあったかも知らない。ただ、俺が生きて帰ってくることだけを信じ、腹を空かせて待っている。

 そうだ。俺は、帰らないといけない。

 帰って、若殿に、伝えないといけない。


 俺は作兵衛の手に掴まり、震える足でゆっくりと立ち上がった。




 「……ああ。帰ろう、作兵衛」




 掠れた声でそう答えると、作兵衛は遂に嬉しそうな表情を浮かべ、頷いた。    

 傍らでそれを見ていた幸綱が、暗闇の中で一度だけ深く頷き、霧のように静かに去っていくのが見えた。


 俺は、腰の刀の重みを改めて感じながら、作兵衛に肩を貸してもらい、一歩を踏み出す。

 朱色が消え、完全に闇に包まれた大広間を背にして。


 そこにはもう、未来から来た「俺」も、人を殺そうとした「化物」もいない。

 ただ、乱世(・・)という果てしない地獄の中で、それでも必死に生を繋ごうとする、一人のひどく疲れた男が、村へと続く夜道を歩き出すだけだった。


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