第百九十五話 審問の、刻(七)
合計200話突破しました。今後とも武田の鬼を、よろしくお願いいたします!
抜刀した瞬間の、ひんやりとした鋼の重みが、腕に伝わる。
この男の首を。この、俺に「未来」を託し、静かに目を閉じる老人の頸骨を、俺はここで、断ち切らねばならない。
「……っ……ぁ……」
呼吸が、うまくできない。
目眩と頭痛が同時に来る。脳裏の奥で、別の世界の光が瞬く。
蛇口を捻れば水が出た。
壁のスイッチを押せば、白い灯りが点いた。
人の命は守られるべきものだと、疑う余地のない時代。
だが今、俺が握っているのは、本物の日本刀だ。
重く、鋭く、命を断つためだけに鍛えられたもの。
刀の柄を握る両手は、恥ずかしいほどに激しく震えていた。
鉄と鉄が噛み合う鯉口の音が、静寂の中でガチガチと鳴り響く。目の前にいるのは、確かに何百年も前の戦国の世を生きた、一人の男である。
同時に、四年もの間、村で共に平和を保とうと尽力してきた男でもあった。
その男の生身の首を、力任せに叩き斬る感触を想像し、吐き気を催した。
肉を裂き、骨を砕き、温かい血を浴びる。
現代を生きてきた俺に、できるはずがない。
恐怖が胃の底からせり上がり、酸っぱい液が喉を焼く。脳が「逃げろ」と絶叫している。足の指先まで血の気が引き、畳の感触すら消えていく。
泰山は、動かない。「さあ、早くしろ」とでも言うように、白く細い首をさらけ出している。その泰然とした姿が、逆に俺の罪悪感を狂おしいほどに加速させた。
俺がここで刃を振るえば、泰山の積み上げた「策」は完成する。だが、その代償に俺の魂は、二度と元の時代には戻れない程に、壊れてしまうだろう。
覚悟を、決めよ
脳裏に響く声。異物が叫んでいる。
やめろ、やめてくれ
この刀を振り下ろせば、
俺が、俺ではなくなってしまう
俺は、震える刀を、魂を削り出すようにして振りかぶった。
殺してやる。殺さなきゃいけない。
もう、後戻りなど、できはしない。
俺は、震える刀を、力の限りに振りかぶった。
目を瞑り、魂を叫びに変えて。
それを振り下ろそうとした、その刹那。
「――よせッ!!!」
広間を裂くような、悲鳴にも似た怒号が響いた。
上座にいたはずの晴信が畳を蹴り、装束を乱しながら俺の手元へ飛び込んできた。
「やめろっ、 晴幸っ、その男を殺さないでくれっ!!」
俺の腕を掴む晴信の手は、鉄の枷のように強烈で、同時に、信じられぬほどに激しく震えていた。
「......ぁ.......」
俺は呆然とし、力無く手から刀が落ちた。
地に突き刺さった太刀が、寂しげに余韻を響かせる。
晴信は、荒い息を吐きながら、俯いたまま泰山の前に膝をついた。
「……泰山、其方は、父・信虎が死ぬ間際まで案じていた男だぞ.......!儂が隠し通せるとでも思っていたのか!?この大うつけがっっ!!」
晴信の声は、もはや主君のそれではない。
暗殺者に命乞いをする少年のように、掠れていた。
板垣たちが、信じられぬものを見る目で、晴信を注視する。
「父上は……信虎は、儂にこう仰った......館に潜む、あの白い影だけは殺すな......あれは武田の地を守る、毒にして薬である、《近衛泰山》という名だけは、誰にも漏らすなと......っ
儂は……ずっと、待っておったのだ!!其方が自らその皮を脱ぎ、儂の前に現れる日を、名を隠し、姿を変え、松尾泰山として銭を弄んでいる間も、其方の眼の奥にあるあの冷たい毒を、儂は一日たりとも忘れたことはなかった!!其方がおらねば、儂は、武田は、ここまで大きくなれなかった!!」
それは間違いなく、晴信の本心であった。
晴信が顔を上げる。その表情には、乱世を統べる覇者の威厳など微塵もなく、ただやるせない人情と、主人として下すべき非情な決断の間で引き裂かれた、一人の人間の苦悩が湛えられていた。
「何故じゃ、何故っ、何故っ、乱世とは、これほどまでに残酷なものなのだ......盤を整えれば整えるほど、儂の周りの人間達が、皆儂の前から居なくなってしまう......っ!!泰山っ!!其方が我がため、武田のために首を差し出すというのなら、儂は……儂は、勝利など要らぬ!!」
晴信は泰山の肩を、壊れ物を扱うように強く、強く掴み揺さぶった。俯きがちのその表情は赤みがかり、泣いているようにも、怒っているようにも見えた。
「死なせてなるものか、死なせてなるものかっ!!お主は決して、村上を潰すための『撒き餌』ではない!!これは命令じゃ、生きて、この盤の先を見届けろ!!儂と共に、この地獄を歩み続けろ、泰山!!!」
泰山は、ゆっくりと目を開けた。
驚いたような、それでいてひどく困ったような顔で、自分を必死に繋ぎ止めようとする主君を見つめている。
「……殿。それでは、晴幸殿が命を懸け揃えた証拠も、儂が仕掛けた二十年の策も、すべてが無に帰しますぞ......筋が通りませぬ」
「筋など知ったことかっ!! この儂が、武田晴信が許さぬと言っておるのだ!!」
晴信の慟哭が、広間を震わせた。
板垣も、甘利も、誰もが言葉を失い、ただ主君の剥き出しの感情に気圧されていた。
俺は、地に手をついたまま、その光景をぼうぜんと眺めていた。溢れ出た涙が、泥に汚れた自分の手を濡らしている。
死ぬことでしか策を完成させられないと信じる、旧時代の策士。その男を生かすために、あえて盤を壊そうとする、あまりに若く、情熱的な主君。
――この二人の間に、俺は、何を持って立てばいい。
泰山は、晴信の手の上に自分の枯れ木のような手を重ね、ふっと静かに、いつもの不敵な笑みを漏らした。
「……やれやれ......困ったものだ。やはり貴方様は、儂の予想を……儂の描いた『詰みの盤面』を、平気で踏み荒らしてしまわれる。
......しかし、お言葉ですが、晴信様。それは、あまりに《酷な甘え》にござります」
泰山の声は、先ほどまでの穏やかさを失い、ひどく冷たく、鋭いものに変貌していた。
「儂の死は、村上を葬るための最後の楔にござる。儂がここで生き延びれば、村上は警戒を解かず、放たれた米の『道』も、皆が暴いた『真実』も、すべてがただの騒動として霧散する。
……武田を勝たせるために、儂はこの二十年、己を殺して生きてきた。その結末を、情如きで汚してくださるな」
泰山は顔を上げ、晴信を射抜くような目で見据えた。その瞳にあるのは忠義ではなく、自らの策を完璧な美で終わらせたいという、言うなれば職人の執念だった。
「信虎公は『殺すな』と仰ったかもしれぬ。だが、今の主は貴方様です。主君ならば、駒の死に様を嘆く暇があれば、それによって得られる勝ちを拾うべきです……晴信様、貴方様が儂を『薬』と呼ぶのなら、今この瞬間に、毒として飲み干してくだされ」
「うるさいっ!!黙れっ、黙れ黙れ!!」
晴信は、泰山のその言葉を真っ向から受け止め、狂おしげに顔を歪めた。そして、彼は泰山の泰山の胸ぐらを掴み、そのまま地の上へと押し倒し馬乗りになった。
「御館様……っ」
俺が思わず声を漏らした瞬間、晴信の怒声がそれをかき消した。
「だまれっ!! 勝ち負け、駒、筋……そんな言葉で儂を煙に巻くのは止めよ!! 」
晴信は泰山の胸ぐらを掴んだまま、食い入るようにその顔を覗き込んだ。
「其方は武田の盤を整えると言ったはずだ!!ならば何故、その盤から自分だけが消えようとする!?板垣も、甘利も、飯富も、そして此処におる晴幸も、皆がそれぞれの誠を以て儂の横に立っておる!!だがお主は違う、お主は二十年もの間、儂の『影』そのものであったはずだ!!影を切り捨てて、どうして光の下を歩めるというのだっ!!
その時、遂に晴信の瞳から、一筋の涙が泰山の頬へと零れ落ちた。
「泰山っ......其方を殺して得る信濃など、儂には砂を噛むより無価値なのだ!!信虎が、父上が何と言おうと関係ない!!儂が、其方を、生かすと決めたのだ!!其方が『死こそが完成』だというのなら、儂がその盤面を粉々に砕いてやる! 泰山、其方は死ぬことよりも苦しい、この『地獄』で、武田晴信の半身として生き続ける責務を選べぇっ!!」
晴信の声が裏返るほどの叫びは、もはや理屈ではない。 主君として、そして泰山という男の「本質」を誰よりも知る、一人の理解者の命を、「勝利」という安っぽい代価に替えることへの、峻烈な拒絶であった。
俺は、落とした刀を握ることもできず、ただ二人の魂が削り合われる様子に圧倒されていた。
ぽろぽろと溢れる晴信の涙が、泰山の白い髪を濡らす。泰山はその雫を見つめたまま、一瞬、呆然と唇を震わせた。
心の中の盤が、音を立てて崩れていく。
完璧な策を組み上げた参謀が、初めて計算外の「情」に盤面を叩き割られ、狼狽えていた。
「……殿……貴方様は、本当に……」
泰山は、ようやく絞り出すように声を漏らした。 馬乗りになった晴信の重みを感じながら、彼は己の頬を伝う主君の涙を、まるで未知の劇薬でも浴びたかのような、驚きに満ちた目で見つめている。
「……儂の描いた詰みの形を、そうまでして汚したいのですか」
泰山の手が、ゆっくりと、震えながら晴信の腕に添えられた。それは拒絶ではなく、あまりに眩しい熱量に触れようとする、幼子の手付きに似ていた。
「この老い先短い命を……村上という大魚を釣る餌にすら、させてくれぬと仰るのですか」
晴信は、逃がさないと言わんばかりに泰山の衣を強く握ったまま、顔を近づけて言い放つ。
「決してさせぬ!!餌には儂がなる、道は晴幸が作る、其方はそれを、ただ黙って見届けよ!!それが主君としての儂の、最初で最後の『我儘』じゃ!!」
そして、泰山はふっと、長い、長い溜息を吐いた。
その顔から、あの冷徹な仮面が崩れ落ちる。
「……はは.....ははは.....敵いませぬな……策士が、その主君の涙に当てられては……おしまいだ」
泰山は力なく目を閉じ、涙を浮かべる。
その口元には、完璧な策を壊された無念さと、それを上回るほどの、ひどく人間臭い安堵が、滲み出るように浮かんでいた。
次回、審問の後




