第十九話 多大な、覚悟
六月三十日
「馬鹿め、まんまと騙されおって……」
諏訪頼重は上原城を眺めていた。
先の戦で、諏訪家が築いた砦。そこから見える我が城の大きさを実感しつつ、優越感に浸る。
「殿!千葉隊と高遠隊、
既に上原城に向かっております!」
「あいわかった、
其のまま徒立をもって攻めたてよ」
突如届いた一報に、頼重は笑みを抑えられなかった。
「此れで武田も御仕舞いじゃ」
その時、頼重の許を訪れる一人の男。
頼重は笑みを浮かべながら、彼を見る。
夜風が、彼の召物の袖を揺らした。
「のお、石井殿」
石井と呼ばれた男は、静かに頷く。
「其方は主君を裏切ったのだ。
今さら未練など無かろうよ」
「……は、頼重様」
石井の目には光が灯らず、頼重の言葉に頷くのみ。
その様子にも、満足げな表情を浮かべる頼重。
今さえ、石井の本心に気付く事は無い。
〈信濃諏訪領内、上原城〉
「おかしい、何故伝令が来ぬ」
上原城内はざわつき始める。
唯一人、虎胤は無言で居座り続けていた。
晴信から寄越されるだろう使者が、一向に到着しない。
陣からの距離を考えると、幾ら何でも時間が掛かり過ぎている。
「と、虎胤殿?」
「厠へ行く」
虎胤は遂に立ち上がり、広間を後にする。
様々な憶測が脳裏を埋め尽くす。
虎胤は廊下を歩きながら、右手で顔を覆った。
(少なくとも、晴信様が指示を出さずにおられるとは考えにくい。
やはり使いの身に何かあったのだろうか)
考えられる可能性は二つある。
使者が何らかの理由で足止めを食らっているか。
それとも、使者が我らを裏切ったか。
考えたくはないが、諏訪兵の数からして、やはり〈後者〉の方が有力なのだろう。
微量の小便の後、身体がぶるりと震える。
彼が厠を後にした時、ふと屋敷の傍の木に留まる梟と目が合った。
虎胤は直ぐに目を逸らす。
此の時代、梟は不吉な存在として忌み嫌われていた。
虎胤は見なかった事にするべく、直ちに忘却に頼る。
しかし不吉だ。やはり何かがおかしい。
「あぁああぁぁあぁぁぁ!!!!」
「!?」
それは突然の出来事。
鳴り響く悲痛な叫び声に、虎胤は驚嘆する。
声の先は、皆が集っていた広間。大急ぎで広間へ戻る彼を待ち受けていたのは、衝撃の光景。
「な......」
目前に広がる景観に、虎胤は言葉を失った。
広間の中心で、血を引きずる男。
その手には、見覚えのある仲間の首。
気付けば辺りには血溜りと、幾人もの死体が転がっている。
彼らは先程まで側で語り合っていた、仲間たちの骸。
男の背に立つ旗印に描かれて居るのは、
諏訪家の家紋。
(敵か……っ!)
「奇襲じゃっ!みな出会えっ!!」
虎胤の声と共に広間の障子が開き、男を取り囲んだ。
しかし、男は動じることなく、不敵な笑みさえ浮かべている。
「ふっ、奇襲を仕掛けたのは何方の方じゃ」
そう語り、男は右手を挙げる。
その瞬間、隣の男の首が飛んだ。
それは、ぼとりと生々しい音を立て、床に落ちる。
「うぁあっ!!」
仲間の一人が驚きの余り、その場に尻餅をつく。
気付けば無数の兵が虎胤達の背後に回り、彼らを囲んでいた。
「なんとまあ、実に愉快じゃ。
まんまと我らの策にはまりおって」
諏訪兵の一人が口を開く。
虎胤は顎を引き、腰刀を抜いた。
やはりそうだ。
厭な勘が当たってしまった。
わざと敵の支城に誘い込み、その間に兵をありったけ集め、此処で我等を討ち取る。
先陣には武に優れた者が任命されることも多い。故に此処で討ち取れば、武田の戦力を大幅に削ぐことが可能。
それこそが、諏訪頼重の敷いた策。
「策士だな……諏訪頼重」
呟きながら、虎胤は苦し気な笑みを浮かべる。
そのまま腰を下げつつ、刀を構える。
「やれ」
敵将の掛け声と同時に、
敵の兵は虎胤達に襲い掛かった。
「晴信様!
上原城が、諏訪勢によって攻め立てられております!!」
「!?」
突然、陣中へ舞い込んだ報告。
晴信は其の男を睨む。
「藤三郎は如何した、先陣を引かせに向かったのではなかったか」
「わ、分かりませぬ、確かに向かわせた筈なのですが、未だに戻って来ず……」
晴信は視点を変える。
彼の目に映るのは、南部宗秀の姿。
「南部、此れは如何なることか」
「い、いや、それは、」
動揺している。
南部は弁解を図ろうとしていた。
しかし、それは時すでに遅し、
俺は勿論のこと、皆も同様に気付き始めている。
「もしや、この武田を裏切ってはおるまいな」
藤三郎、彼こそ諏訪家の仕掛けた〈裏切り者〉なのではないか。
無論南部自身も気づいている筈だ。しかし彼だけは弁明を図る様子を見せる。その理由は一つしかない。
「藤三郎は、此れまで一度も
我等の言葉に背いた事はありませぬ!
裏切るなんて大それたこと……」
「何故そう言える、此処から上原城まではそれ程遠い訳では無い。
しかし現に奴は此処に戻っておらぬではないか。
それとも、其方の家臣故に庇いたいと、そう申すのか」
《家臣であること》
其れこそが、南部が信じたくないという
たった一つの理由。
南部はゆっくりと晴信の方へ歩み、
彼の目前で立ち止まる。
「殿、藤三郎の事は、私がよく存じております、
幾年と過ごした仲ならば分かります、
あの男が、その様な愚行を犯す筈がありませぬ!
どうか、どうか信じてくだされ!殿っ!」
「南部殿」
南部は背後からの声に振り返る。
陣中の者は皆、南部から目を逸らし俯く。
斯くして南部は気づく。
己が取り乱していたこと。
そして、弁解の余地など無いということを。
「何故、」
彼は一歩、後ずさりする。
そんな彼に追い打ちをかけるかの如く、
晴信は語るのだった。
「其方は、藤三郎の事をよく存じておると申したな、
ならば、一番に認めてやれ。
其方の家臣は諏訪に内通し、裏切ったのだ。我等を、そして其方を。
其方はただ、認めようとしないだけじゃ」
南部はゆっくりと、膝から崩れ落ちる。
「何故だ……とうさぶろう……何故だ……」
俺は彼の背中を見ていた。
同時に、彼への慈悲の心が芽生え始めていた。
己の家臣が裏切る、もしそんなことがあれば、誰だって認めたくはないというのが本心である。
しかし、それを認めることも立派な主人の務めであり、立派な強さだと、俺は知っている。
残酷なのかもしれない。
でも、だからこそ俺は、あえて手を差し伸べようとはしなかった。
「南部、其方は儂の味方か」
晴信の問いかけに、南部は頷く。
「……勿論にございます」
その時、俺の背筋に悪寒が走る。
晴信は今までに無い程の恐ろしい表情を、南部に向けていた。
「ならば、其方に《討手の命》を与える。
主人ならば責任を取り、〈石井藤三郎〉を討ち取って参れ。
できねば其方も敵とみなし、この場で斬る」
南部は顔を上げる。
その目には、薄らと涙が浮かぶ。
〈自身の家臣を討たねば、己が殺される〉
恐ろしい契約だと、俺は思った。
晴信の発言は、悪人の発想に近い。
俺はごくりと唾を飲む。
これを通じて、南部はどんな結論を導くというのだろうか。
南部は歯を食いしばり、遂に拳を地に付けた。
「己が命に変えて......石井藤三郎......この手で討ち取って参ります……」
俯いたまま発された、弱弱しい声。
周りの者は立ちすくんだまま、彼の蹲る姿を見ていた。
震える彼の身体に寄り添う者は、
誰一人としていない。
「ふんっ!!」
虎胤は刀を振り回し、敵を次々となぎ倒してゆく。
しかし、どれほど倒したところで、数は減る様子を見せない。
虎胤は息を切らし、ふらつく。
「くそっ......」
敵に身体を数カ所斬られ、既に軽い貧血に襲われていた。
久方ぶりの斬り合いは、やはり体力が持たない。
(此処でへたる訳にはいかぬ)
その一心で、彼は足で地を踏ん張り体勢を立て直す。
「大将の御首、頂戴いたすっ!覚悟致せ!!」
突然の声に、虎胤は振り返る。
目の前で敵が、虎胤めがけて刀を振り上げていた。
「っ!!」
ふらつきに集中が途切れ、
背後からの攻撃に気付くことが出来なかった。
敵は、勢いよく刀を振り下ろす。
「虎胤どのっ!!」
その瞬間、家臣が彼の背後に回り、振り下ろされた刃を受ける。
背後に轟く悲痛な叫びと、倒れる音。
虎胤は動かなくなった仲間の様子を見て、硬直する。
途端に、虎胤の目の色が、変わった。
「お……っ、おのれぇぇぇ!!!」
彼は叫び、獣の如く、再び刃を振るう。
この日、鮮血に染まる城内においての、
虎胤の快進撃は、夜通し続くのであった。
次回
晴幸、覚醒。




