第百九十四話 審問の、刻(六)
泰山は、指先で小枝の折れた断面をそっとなぞった。生々しく白い芯が覗く。
それが、己の腹を割り、内臓を曝け出す合図にでもなったかのように、泰山は澱みのない声で語り始めた。
広間の空気が、一層深く沈み込む。
板垣は自身の鼓動さえ抑えるように息を殺し、甘利は獲物の喉元を睨むように目を細め、飯富は影の僅かな揺らぎすら見逃さぬ峻烈な面持ちで控えている。 ただ一人、上座の晴信だけが、深山の巨岩のごとく動かない。動かぬまま、眼光だけで泰山の正体を計り続けている。
「まず、儂が何故《村上の影》を引きずり続けたか、じゃな」
泰山は笑わなかった。
だがその声音だけは、春の陽だまりのように不思議と穏やかだった。
「影というのは、捨てれば消えるものではない。強引に捨てたと見せれば、周囲の邪推を呼んで余計に長く伸びるもの。
村上義清は賢い。そして、ここに並ぶ武田の重臣たちもまた賢い。賢き者ほど影が消えた途端に、それを《消した手》の正体を探ろうとする」
板垣が、地を這うような低い声で応じる。
「……要するに、双方からの疑いを避けるために、あえて村上との繋がりを断たなかったと?」
「半分は当たりじゃ。だが、残り半分こそが肝よ」
泰山は白髪の混じる頭をゆっくりと上げ、指を一本立てた。
「儂は村上に対し、《裏切っていない》と見せ続けねばならなかった。何故ならば、村上に見限られれば、奴らは必ず別の手を立てる。別の策士が立てば、儂が二十年かけて知った村上の“癖”も“道”も、すべてが変わってしまう。それでは、肝心の合図が読めぬ」
続けて、二本目の指を立てる。
「回しておった米も同じよ。武田にも《裏切っている》と悟られてはならぬ。完全に悟られれば、その途端に儂の首は落ちて終いじゃ。語るべき舌が落ちれば、村上へ続く道もまた闇に落ちる」
泰山は、地に落ちた小枝の欠片を一つ拾い上げ、指先でころりと転がした。
「故に、儂は《二つもの広大な目》を同時に欺いた。村上の目には、儂はまだ忠実に働いているように。武田の目には、儂はただの欲深い金貸し、正体不明の松尾泰山に見えるように……な」
「……欺くために、我が領内の米を敵に渡したか」
甘利が薄く笑い、刃のような言葉を投げかける。
泰山は静かに頷いた。
「そうじゃ。米を譲った。だが――」
泰山は、そこで言葉を一度切った。
その沈黙が、妙に長い。
広間に居並ぶ者たちの呼吸の“数”までも数え上げているような、不気味な静寂だ。
「――大仰に渡したわけではない。気づかれぬ程度の微差じゃ。村上が『泰山はまだ武田の内部で暗躍している』と信じるに足り、同時に武田が『ただの流通の歪み、商人の小利口な小細工』と見做すに足りる、極限の量よ」
飯富虎昌が、冷徹な視線で射抜く。
「……その程度の微差で、何が動くというのだ」
「微差で人は動く。腹が満ちぬ飢饉の時、その微差は命に化ける。そして命に直結するものは、瞬く間に“軍勢”を動かす動機になる。
儂は村上を支えた“ように見せた”――と言うべきじゃろうな」
その言い方が、広間に居並ぶ勇将たちの背筋を凍らせた。
この男は、想像以上に頭が回る。
そして、想像以上に恐ろしく、悍ましい人間なのだと。
晴信が、初めて重々しく言葉を落とす。
「……続けよ。何故《松尾泰山》という銭の皮を脱がなかった」
「銭の皮は、鎧よりもはるかに便利ゆえ。
武士の鎧では門で止まる。僧の衣では座が決まる。
だが金貸しの皮は、門の内外、蔵、畑、果ては人の腹の中にまで入り込める。
金を借りる者は弱い。そして弱い者は口が軽い。『米がどこへ動いたか』という結果ではない。『誰がそれを動かせる位置にいるか』という、人の澱みを見ることこそ、儂の真の商いじゃ」
そして、泰山はゆっくりと俺の方を振り返った。その瞳に、あの不気味な温度が戻る。手順が揃い、詰みの形が見えた時の温度だ。
「晴幸殿。お主が追ってきたのは、米の道ではない。米を欲する“人の執念が描く道”じゃ。
銭の皮を脱げば、その道の端が切れる。
切れれば、敵の出す合図も聞こえなくなる」
私は唇を噛み締めた。泰山が残した帳面も札も、最後に行き着くのは計算ではなく《人の癖》であった。
この男は、人の心の機微を道標にしていたのだ。
「では、何故今日この場で――すべてを揃え、正体を晒した」
晴信が、最後の核心を問う。
声は低く、抜身の刀のごとき鋭利さを帯びて。
泰山は、そこでようやく笑った。いつもの道化の笑いではない。厳冬の湖面に張る、薄く鋭い氷のような笑みだった。
「……殿が、《完成》されたからじゃ」
その言葉に、広間の時が再び止まった。
「儂は二十年前、川べりで殿の目を見た。この主は途中で殺せばただの仇敵に過ぎぬ。だが《完成》してからならば――世の流れごと宿敵を潰す、至高の刃になる。儂はそう確信した」
泰山は、折れた小枝の欠片を畳の上に並べた。
まるで、盤上に決定的な一石を置くように。
「村上義清は、今なお『武田の当主は青二才』と侮っておる。そして『泰山が裏で米を回している』と信じ切っておるはずだ。信じているからこそ、奴らは独りよがりに支度を進める。進めるからこそ、そこに隙が、合図が出る」
「……合図、だと」
「そうじゃ。合戦の合図。儂はそれを武田へ献上するために、今日この場を設けた。我が悪行を、わざと晴幸殿に暴かせたのよ」
「それではっ、武田を危地に落とす所業ではないか!」
板垣が吠える。
泰山は、どこまでも穏やかに返した。
「危地に落とすためなら、もっと早く、もっと派手に動いておるわ。儂は派手を避け、微差に徹してきた。なぜなら――今までは合図が出るには、早すぎたからじゃ」
泰山はゆっくりと視線を上げ、晴信を真正面から見据えた。
「殿が未だ主として揺れておられる時に合図を渡せば、武田の家臣団は必ず割れる。割れれば村上の思う壺。それは儂の望みではない。
儂の真の目的は、ただ一つ。村上義清を、武田晴信の手で、根絶やしにすることじゃ」
空気が、物理的な圧力を伴って鳴った。
板垣の表情は硬直し、甘利の余裕は消え、飯富の視線が泰山の頸動脈に固定されている。
私の背には、冷たい汗が幾筋も伝った。
松尾泰山、否、近衛泰山。
この男は、晴信よりも高い位置で、
武田を、我らを、見ていたのやも知れぬ。
「だからこそ、晴幸殿。お主に儂の首を落とせと言った。儂が《武田を裏切った大悪党》として処刑されれば、村上は『泰山の計略は成功した』と確信し、安心して兵を動かすであろう。目論見通りに動けば......武田は、盤の外から不意を突かれることなく、敵を正面から迎え撃てる」
その理屈は、戦慄するほどに筋が通っていた。
泰山は己の命を、己の行為によって、最後の「撒き餌」にしようとしているのだ。
「……その“合図”をどう渡し、誰が受け取るというのだ」
静かな晴信の問いに、泰山は静かに笑った。
「安心くだされ、既に渡っております」
板垣が思わず立ち上がりかけるが、泰山は畳を指差し、淡々と続けた。
「今日この場で村上の印が出た。米の道が炙り出された。盗人が叫んだ。村上の耳目は、必ずこの混乱を嗅ぎ取る。そのように仕掛けておいた。
噂は風じゃ。風が吹けば兵は焦って動く。兵が動けば、それが合戦の合図となる。合図さえ立てば、あとは御館様が采を振るうだけのこと」
泰山は、最後に小枝の欠片を指で弾いた。
ぱちん、と乾いた音が広間に響き渡る。
「……これが、儂が村上の影を引きずり続け、銭の皮を脱がず、今日この場ですべてを揃え、お主らに暴かせた理由じゃ」
泰山は、ふっと憑き物が落ちたように肩の力を抜いた。だが、その瞳だけは衰えることなく、爛々と私を射抜いている。
「そして――もう一つ。
儂が今日、この盤を畳む決意をした理由がある」
泰山は、立ち尽くす俺の目をじっと見つめた。その視線は、もはや罪人を裁く者のそれではなく、愛弟子を見守る師の温かさを帯びていた。
「山本晴幸。お主という男が、武田家に現れたことじゃ」
その言葉に、広間の空気が微かに揺れた。
板垣や甘利が、その名に眉を寄せる。
「お主が領主となったあの日、お主の瞳の奥に『盤を支配する者の乾き』を見たからよ。
お主はまだ発展途上だ。策の練り方も、人の動かし方も、儂に比べればまだ泥臭く、危うい」
泰山は、折れた小枝の断面を愛おしげに撫でた。
「だが、お主には儂にないものがある。それは誠だ。民を愛し、己を殺し、盤の一部となって主君を天下へと押し上げようとする、狂気にも似た誠実さ......殿が完成し、その傍らにお主という至高の片翼が揃った。もはやこの近衛一太夫が、汚れた手で盤を弄ぶ刻は終わったのよ」
泰山は静かに居住まいを正し、晴信から俺へと、深々と頭を下げた。
「晴幸殿。お主がいれば、武田は、晴信様は、間違いなく信濃を超え、天下へと届くであろう……晴信様を、頼んだぞ」
その言葉は、呪縛のようでありながら、この上なく清々しい祈りのように私の胸に突き刺さった。
気づけば、俺の目からは涙が溢れていた。
泰山は顔を上げ、最後に私の腰にある刀を顎で示す。
「さあ、晴幸殿。泣いている場合ではないぞ。
お主が儂の名を暴き、お主がこの証拠を揃えた。
次はお主が、最後の名を出した責任を、最期を看取る筋を通せ」
広間は、静寂に包まれた。
晴信は、何も言わない。ただ、泰山の覚悟と私の決意を、その冷徹な眼差しで等しく見つめている。
板垣たちもまた、これが単なる処刑ではなく、一つの「策」の完結であり、山本晴幸という男が真の軍師へと羽化するための儀式であることを悟ったのか、刀の柄から手を離した。
「......はっ......はあ......っ......はぁっ......」
俺は、震える手で刀の柄に手をかけた。
喉の奥が、熱い。
心臓が、痛い。
これから、俺は、この手で、
この手で、この男を殺すのだ。
泰山は、穏やかに目を閉じ、首を垂れる。
その口元には、自らが描ききった最期の盤面への、満足げな笑みが浮かんでいた。
「……たい......ざ......ど.......の......」
私は、掠れた声でその名を呼んだ。
答えはなかった。
ただ、春の風が門を吹き抜け、泰山の白い髪を優しく揺らした。
俺は、ゆっくりと、ゆっくりと、刀を抜き放つ。
冷たい鋼の響きが、広間に凛と、響き渡った。




