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武田の鬼に転生した歴史嫌いの俺は、スキルを駆使し天下を見る  作者: こまめ
第5章 十日間の、災厄 (1547年 3月〜)
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第百九十三話 審問の、刻(五)

 晴信は、眉ひとつ動かさなかった。

 ただ、刃が鞘の中で角度を変えるかのように、泰山へ問いかけるのである。


 「お主は、何故名を捨てたまま、この甲斐の土を踏み続けた。何故《松尾泰山》を名乗り、村上の影を――今この刻まで引きずった」


 板垣が息を呑む気配がした。甘利は視線を逸らさず、飯富は半歩も動かぬ。

 俺は、喉の奥の乾きを舌で押し返しながら、泰山の横顔を見た。


 泰山はすぐに答えなかった。

 小枝を指先で転がし、ころり、と自身の影に沿わせる。その音が、妙な()を作った。


 「……問いが上手いのう」


 泰山は微笑む。だが笑みは薄い。

 人を煙に巻く道化の笑みではなく、獣が距離を測る笑みだ。


 「名を捨てたのは――戻れぬからじゃ。

  村上へ戻れば、儂は“功”として扱われる。

  功とは至極便利な首輪じゃ。褒美という名で縛り、役目という名で使い潰す。

 そして、武田で《松尾泰山》を名乗り続けたのは、名が()だからじゃ。

 近衛泰山の名を出せば、村上は疑う。武田も疑う。

 疑いは刃になる前に、風になり、噂になり、道を変える。米を動かした……否、《動くようにした》と言うた方が良いかの」


 板垣が低く唸る。


 「言葉遊びは要らぬ。村上の印が出た以上、貴様は間者じゃ。

 御館様、こやつはここで斬るべき――」

 「板垣」


 晴信の一言で、板垣は口を閉じた。

 晴信は泰山から目を離さない。


 「儂はまだ、肝を聞いておらぬ。

  ――なぜ、今になって正体を明かした。

  隠せたはずだ。逃げることもできたはずだ」


 その問いに、泰山はふっと目を細めた。

 まるで、川辺で見た《あの目》を思い出すように。


 「……逃げるとは、どこへ逃げるのか」


 泰山は静かに手を広げる。


 「村上へ? ――戻れぬ。

  武田へ? ――今、こうして首が空に浮いておる。

  世の中へ? ――世は、儂のような者を逃がさぬ。策を持つ者は、いつか必ず誰かの盤に乗る」


 そこで泰山は、わずかに笑った。

 あの道化の笑いに似ていながら、どこにも軽さがない。


 「故に明かした。

  《明かされるようにした》と申してもよい。

  ――晴幸殿が、土産を抱えて戻ってきたことでな」


 俺の名が出た瞬間、広間の視線が俺に刺さった。

 泰山もまた、俺を見ている。

 その視線に、妙な温度があった。

 愉悦でも同情でもない。

 《手順が揃った》という、確認の目だ。



 「晴幸殿。お主は今、殿の前に“刃”を出した。

  証を並べた。名を言い当てた。

  ……ならば次に求められるのは何か、分かるかの」



 俺は、答えられなかった。

 胸の奥で、嫌な音がした。


 晴信が言う。


「言葉は、刃より重い。

 お主は“近衛泰山”と口にした。

 ならば、其方はその名の結末まで見届けねばならぬ」

 「……そうじゃ。名を出した者が、手を下すのが筋でござろう......」


 俺の指先が、無意識に強張った。

 晴信が以前、言った言葉が脳裏を叩く。

 ――「裏切りであるならば、この男の首を刈るのはお主だ」と。


 泰山は、そこで笑った。


 「ほう。やはり殿は筋を通される」


 泰山は身を起こし、地の上で姿勢を正した。

 まるで自分が裁く側であるかのように、堂々と。


 そして――俺を見て、穏やかに言った。










 「山本晴幸。儂の首を落とせ」










 「……泰山、殿」


 俺の声は、掠れていた。

 喉が、焼けるように痛い。

 泰山は頷く。いっそ優しい目で。


 「お主が言うたのじゃ。

  儂は“北へ繋げた”と。村上の作法を残したと。

  お主はそれに気づいた。気づいてくれた。

  ならば、殿の前でお主が斬らねば、全てが偽りになる」


 その言葉に、甘利が鋭く言う。

 「見苦しい猿芝居だ。命乞いか?」

 「命乞い?甘利殿。

  儂は命など要らぬと言うておる。

  儂が欲しいのは――《話す刻》じゃ」


 甘利が目を細めた。


 「話す刻、だと?」

 「そうじゃ。儂の首を落とすことなど何時でもできよう。

 だが首を落とせば、ここにある()は――誰が辿る?」


 泰山はゆっくりと、己の影を指でなぞった。

 道を描くように、まっすぐに。


 「米の道。札の道。合図の道。

  ――村上が何を準備し、どこまで手を伸ばしておるか。

  それを語る舌は、今ここに一つしかない」

 「……その舌を信用せよと申すのか?」


 飯富の言葉に、泰山は頷いた。

 「信用せずともよい。

  だが聞かねば、殿の盤はまた汚れる」


 俺は息を止めた。

 命じられたことよりも、その次の言葉が怖かった。

 晴信は泰山に言う。


 「……首を落とせと言ったな。その言葉は、自身の為か」

 「主君のためでもある。晴幸殿のためでもある。

  そして――拙者自身のためでもある」


 泰山は、ゆっくりと頭を下げた。

 頭を下げる姿があまりに自然で、背筋が凍る。


 「儂は“殺し”から始まり、“銭”で生き延びた。

  だが、最期くらいは筋を通して終えたい。

  ――晴幸殿が刃を取るなら、躊躇うな。

  躊躇いは刃を鈍らせ、鈍い刃は人を苦しめる」


 俺はこれ以上、言葉が出なかった。

 目の前の男が、こちらの心の奥まで知っている気がしたからだ。


 泰山は顔を上げ、晴信を見る。

 その目に、あの日の空が一瞬だけ映ったように見えた。




 「……さて、晴信様。ここまでが“前置き”じゃ」




 泰山は小枝を指先で折った。

 ぱきり、と乾いた音。


 「これよりは、儂が何故村上の影を引きずり続けたか。

  何故《松尾泰山》として、銭の皮を脱がなかったか。

  そして、何故今日この場で――すべてを揃えたか。

  お話し致しましょうぞ」


 広間の誰もが、息をするのを忘れていた。

 俺も同じだった。

 泰山は、まるで自身が旅の語り部であるかのように、静かに言った。


 その声は、もはや道化のものではない。

 刃が、鞘から少しだけ覗いたような、音だった。

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