第百九十三話 審問の、刻(五)
晴信は、眉ひとつ動かさなかった。
ただ、刃が鞘の中で角度を変えるかのように、泰山へ問いかけるのである。
「お主は、何故名を捨てたまま、この甲斐の土を踏み続けた。何故《松尾泰山》を名乗り、村上の影を――今この刻まで引きずった」
板垣が息を呑む気配がした。甘利は視線を逸らさず、飯富は半歩も動かぬ。
俺は、喉の奥の乾きを舌で押し返しながら、泰山の横顔を見た。
泰山はすぐに答えなかった。
小枝を指先で転がし、ころり、と自身の影に沿わせる。その音が、妙な間を作った。
「……問いが上手いのう」
泰山は微笑む。だが笑みは薄い。
人を煙に巻く道化の笑みではなく、獣が距離を測る笑みだ。
「名を捨てたのは――戻れぬからじゃ。
村上へ戻れば、儂は“功”として扱われる。
功とは至極便利な首輪じゃ。褒美という名で縛り、役目という名で使い潰す。
そして、武田で《松尾泰山》を名乗り続けたのは、名が鎧だからじゃ。
近衛泰山の名を出せば、村上は疑う。武田も疑う。
疑いは刃になる前に、風になり、噂になり、道を変える。米を動かした……否、《動くようにした》と言うた方が良いかの」
板垣が低く唸る。
「言葉遊びは要らぬ。村上の印が出た以上、貴様は間者じゃ。
御館様、こやつはここで斬るべき――」
「板垣」
晴信の一言で、板垣は口を閉じた。
晴信は泰山から目を離さない。
「儂はまだ、肝を聞いておらぬ。
――なぜ、今になって正体を明かした。
隠せたはずだ。逃げることもできたはずだ」
その問いに、泰山はふっと目を細めた。
まるで、川辺で見た《あの目》を思い出すように。
「……逃げるとは、どこへ逃げるのか」
泰山は静かに手を広げる。
「村上へ? ――戻れぬ。
武田へ? ――今、こうして首が空に浮いておる。
世の中へ? ――世は、儂のような者を逃がさぬ。策を持つ者は、いつか必ず誰かの盤に乗る」
そこで泰山は、わずかに笑った。
あの道化の笑いに似ていながら、どこにも軽さがない。
「故に明かした。
《明かされるようにした》と申してもよい。
――晴幸殿が、土産を抱えて戻ってきたことでな」
俺の名が出た瞬間、広間の視線が俺に刺さった。
泰山もまた、俺を見ている。
その視線に、妙な温度があった。
愉悦でも同情でもない。
《手順が揃った》という、確認の目だ。
「晴幸殿。お主は今、殿の前に“刃”を出した。
証を並べた。名を言い当てた。
……ならば次に求められるのは何か、分かるかの」
俺は、答えられなかった。
胸の奥で、嫌な音がした。
晴信が言う。
「言葉は、刃より重い。
お主は“近衛泰山”と口にした。
ならば、其方はその名の結末まで見届けねばならぬ」
「……そうじゃ。名を出した者が、手を下すのが筋でござろう......」
俺の指先が、無意識に強張った。
晴信が以前、言った言葉が脳裏を叩く。
――「裏切りであるならば、この男の首を刈るのはお主だ」と。
泰山は、そこで笑った。
「ほう。やはり殿は筋を通される」
泰山は身を起こし、地の上で姿勢を正した。
まるで自分が裁く側であるかのように、堂々と。
そして――俺を見て、穏やかに言った。
「山本晴幸。儂の首を落とせ」
「……泰山、殿」
俺の声は、掠れていた。
喉が、焼けるように痛い。
泰山は頷く。いっそ優しい目で。
「お主が言うたのじゃ。
儂は“北へ繋げた”と。村上の作法を残したと。
お主はそれに気づいた。気づいてくれた。
ならば、殿の前でお主が斬らねば、全てが偽りになる」
その言葉に、甘利が鋭く言う。
「見苦しい猿芝居だ。命乞いか?」
「命乞い?甘利殿。
儂は命など要らぬと言うておる。
儂が欲しいのは――《話す刻》じゃ」
甘利が目を細めた。
「話す刻、だと?」
「そうじゃ。儂の首を落とすことなど何時でもできよう。
だが首を落とせば、ここにある道は――誰が辿る?」
泰山はゆっくりと、己の影を指でなぞった。
道を描くように、まっすぐに。
「米の道。札の道。合図の道。
――村上が何を準備し、どこまで手を伸ばしておるか。
それを語る舌は、今ここに一つしかない」
「……その舌を信用せよと申すのか?」
飯富の言葉に、泰山は頷いた。
「信用せずともよい。
だが聞かねば、殿の盤はまた汚れる」
俺は息を止めた。
命じられたことよりも、その次の言葉が怖かった。
晴信は泰山に言う。
「……首を落とせと言ったな。その言葉は、自身の為か」
「主君のためでもある。晴幸殿のためでもある。
そして――拙者自身のためでもある」
泰山は、ゆっくりと頭を下げた。
頭を下げる姿があまりに自然で、背筋が凍る。
「儂は“殺し”から始まり、“銭”で生き延びた。
だが、最期くらいは筋を通して終えたい。
――晴幸殿が刃を取るなら、躊躇うな。
躊躇いは刃を鈍らせ、鈍い刃は人を苦しめる」
俺はこれ以上、言葉が出なかった。
目の前の男が、こちらの心の奥まで知っている気がしたからだ。
泰山は顔を上げ、晴信を見る。
その目に、あの日の空が一瞬だけ映ったように見えた。
「……さて、晴信様。ここまでが“前置き”じゃ」
泰山は小枝を指先で折った。
ぱきり、と乾いた音。
「これよりは、儂が何故村上の影を引きずり続けたか。
何故《松尾泰山》として、銭の皮を脱がなかったか。
そして、何故今日この場で――すべてを揃えたか。
お話し致しましょうぞ」
広間の誰もが、息をするのを忘れていた。
俺も同じだった。
泰山は、まるで自身が旅の語り部であるかのように、静かに言った。
その声は、もはや道化のものではない。
刃が、鞘から少しだけ覗いたような、音だった。




