第百九十一話 審問の、刻(三)
周囲からすれば、それは突拍子もない凶行に映ったに違いない。
誰もが、俺の荒い吐息よりも先に、この場に漂う異質な「場違い」を敏感に嗅ぎ取っていた。
「……なぜ其方が此処におる。誰が呼び戻した。呼び戻しの伝令など、出しておらぬはずだが」
板垣の地を這うような声が広間に響く。
俺は、膝をつく間も惜しんで深く頭を下げた。
喉の奥はひりつき、口の中は砂を噛んだように乾いている。
無理もない。この老体で三日三晩、俺は獣のように地を這い、影を追っていたのだから。
「己の意思で、此処へ戻りました」
広間の空気が、一瞬で凝固した。
板垣の眼が驚愕にわずかばかり見開かれる。
甘利の眼には、一片の温度もない。
飯富虎昌は、何も言わなかった。ただ、俺の両手。固く握りしめた包みと、腰の脇に結わえた泥だらけの布袋をじっと見据えている。
その視線は、そこに不都合な真実が眠っていることを予見し、釘を打つように動かない。
「晴幸。儂はお主に申したな。
裏切りであるならば、この男の首を刈るのはお主であると」
「......はっ」
「お主なりの答えを、今此処で見せてみよ」
上座から、晴信が重厚な一言を落とした。
肺が焼けるような思いで、俺は深く息を吸い込んだ。
「はっ!」
俺は手にある包みを解いた。
布の内から現れたのは、折り畳まれた紙束と、小さな木札、そして――煤と脂で黒ずんだ古い帳面であった。
その瞬間、周囲の側近たちが一斉に身じろぎした。広間に古い紙の匂いと、湿った土の匂いが立ち込める。それは決して、戦から逃げ帰った臆病者が持ち帰る類のものではなかった。
「……倉番の通り道を張りました。昨夜、松尾殿の屋敷の裏手から出入りする影があったゆえ」
「待て......追ったのか?其方一人でか」
「一人ではない……動ける者を、私の責において動かした」
「勝手な真似を......!お言葉ですが御館様......!この者は白と決まったわけではござりませぬ!
そもそもっ.......話が違うございます!!甲斐へ呼び戻すなと、そうお命じになられたのは御館様にございますぞ!!」
板垣の焦燥混じりの叱責を晴信がわずかな指の動きだけで制した。
当然である。武田の主は、儀礼的な怒りよりも、目の前の“中身”を検分することを選んだのだ。
「証を出せ」
晴信の促しに従い、俺はまず木札を地に置いた。 一見すれば素朴な札だ。だが表面には、ただの荷札ではない奇妙な刻みがある。信濃との交易に通じた者ならば即座に気づく符牒――。
「これは、米俵に結わえられていた札でござる。
よく見れば、これは武田の札でも、甲斐のものでもない」
「……これは、どこで拾った」
「領地の境の手前です。俵そのものは途中で札を外され、別のものに替えられておりました。だが、捨て損ねた札が一本、道端に落ちていた」
次に、俺は煤と泥に汚れた帳面を開いた。
見開きに並ぶのは米の数、荷の数。日付ではなく点と線の符号で記されている。
「帳面は倉ではなく、中継の小屋に隠されていたものです。ここにあるのは、武田の蔵の帳面ではありませぬ。武田の字でもない。……されど、米が動く段取りは克明に書かれております」
「誰の字だ」
飯富虎昌が初めて口を開いた。
短く、刃のような声だ。
俺はすぐさま最後の紙束を差し出した。封蝋はない。だが紐の結びと印の押し方が、武田の作法を明確に拒絶していた。
「此方です」
側近が紙束を受け取り、板垣の元へと運ぶ。
微かな埃の匂い。板垣は唾を飲み、自ら紐を解き中身を検めた。
中から出てきたのは、短い書状と、鮮明な落款。 それを覗き込んだ甘利が、目に見えて顔色を変える。
「……村上の……印だと……?」
広間から一切の音が消えた。
甘利の目が、獲物を追い詰めた獣のように細くなる。
俺は、今度こそ地に座し、真っ直ぐに顔を上げた。泰山を見るためではない。主君へ、真実を突きつけるために。
「御館様、私は初め、松尾泰山が《我が家の米を守るために》動いておると信じておりました。だが、もはや違う。米は止めるためではなく、北へ……敵地、村上へと通す段取りが組まれております。御館様も、既に気づいておられたようですがな......」
板垣が地鳴りのような唸り声を漏らす。
そして、俺は大きく息を吸って叫んだ。
「松尾泰山!!
其方は武田のために盤を整えたふりをし、盤そのものを“北”へと繋げていたのであろう!
村上へ――信濃へ!」
その瞬間、今まで沈黙を守っていた男が、小さく笑ったのだ。
「……ふ......ははっ......ははは」
松尾泰山。 それは驚きではなく、まるで出来のいい弟子を眺めるかのような、愉悦を含んだ響きだった。
俺は泰山へ視線を移し、最後の一押しを地に叩きつける。
「松尾殿……いや、其方の誠の姓は、松尾ではない。根拠は此方じゃ。これは商人の書き方ではござらぬ。軍の、それも村上の軍が使う特有の段取りでござろう!!」」
俺は答えを求める代わりに、紙束の一枚を指差した。 そこには、村上方が使う軍勢の呼び名と、合図の出し方が記されている。
広間はさらに静まり返り、晴信の冷徹な視線がゆっくりと泰山へと移動した。
泰山は黙っていた。ただ、口元に張り付いた笑みだけが、毒のように色濃くなっていく。
「……松尾泰山」
晴信の声が、逃げ場を断つ重低音で響く。
泰山は遂に、大仰に肩を竦めてみせた。
「ほおお、いやぁ、素晴らしい。たった三日三晩でここまで辿り着くとはのぉ。こりゃ大層な土産を抱えて帰ってきたものじゃ。板垣殿、甘利殿、飯富殿......どうです? 儂の“退屈させぬ”が当たったでしょう?」
言葉に、板垣が目を細めながら地を踏み鳴らす。
「......貴様は、何者じゃ」
泰山は指先で小枝を転がしていた手を止め、ふっと長い息を吐いた。
泰山は俯き、これまで見たこともないような、底の知れない笑みを浮かべた。
広間がざわめきかけるが、泰山の放つ不気味な気迫が、それを押し殺す。
「......お初にお目にかかろう。武田晴信殿」
声色の変化。
泰山は顔を上げ、優しい微笑みで自分の胸を指先で叩く。
「拙者の名は――《近衛一太夫泰山》。
かつて村上の御家の参謀として、
仕えておった男じゃ」
「......は?」
その名が出た瞬間、板垣の表情が「理解」の色に染まった。
近衛。それは、かつて村上との国境で、武田を散々に翻弄した智者の名である。
甘利と飯富はその瞬間、静かに斬りかかれる間合いへと身を沈める。
「......間者だったか」
恐ろしい形相の板垣の問いに、泰山は表情を崩さない。斬られれば、それも一興だと言わんばかりに。
「斬りたければ、お斬りなされば良い。
我が殿が、それをお許しになるのならば」
構える板垣達を横目に、泰山は告げる。
その直後、外が騒がしくなった。
途端に戸が開き現れたのは、泥まみれの男。
「晴幸様......っ」
「......作兵衛、漸く来たな」
そこには作兵衛と一人の男の姿があった。
男は腹部と腕を縄で縛られている。
泥と汗にまみれた、痩せた盗人だ。
「蔵から米を抜いていた者を捕らえました。抜け道の途中、俵を崩して札を替えるところでした……どうやら口は軽く、問えばいくらでも喋りまする」
盗人は顔を上げ、泰山を見るなり、目玉が飛び出しそうなほどに見開いた。
「……て、てめえ……! よくも裏切ったな!?」
喉を裂くような叫び。
泰山は、くつくつと喉を鳴らして嗤った。
「あっははは……来た来た。作兵衛よ、よくぞ連れてきた。おかげで良い顔をしておる」
「笑ってんじゃねえ! 俺たちはてめえの言われた通りに、札を替え、北へ回しただけだ!
全部、こいつの指示だッ!こいつが段取りをーー」
泰山は、そこで軽く手を上げた。まるで芝居の幕間を止める役者のように。
「まぁまぁ落ち着け。
頭に血が上ってしまうぞ?」
「裏切り者!!」
「ああ、裏切ったとも」
泰山のあっさりとした答えに、盗人の顔が凍りつく。板垣も甘利も、一瞬呼吸を忘れてしまう。
泰山はそこで、にいっと口角を吊り上げて付け足した。
「だがの。拙者は《村上に戻った》とは一言も言うておらぬぞ?」
「は……? じゃあ……」
「お主らの勝手な妄想じゃ。勝手に、お主らが村上へ返り咲くために動いていると思い込んだだけじゃ。
確かに拙者は《北へ動かせ》とは言うた。《尽くしているように見せろ》とも言うた。……だが、戻ったとは言うておらぬ。
言葉は腹に落として噛むものじゃ」
盗人の顔がみるみるうちに青ざめていく。
途端に作兵衛が縄を引き、力が抜けた男を地に押さえつけた。
「ぐ......っ!!」
身動きの取れない盗人を横目に、晴信は一つ、重い息を吐いた。
その視線は、もはや泥まみれの罪人にも、必死に証拠を揃えた俺にも向いていない。
ただ一人、畳の上に泰然と座す「怪物」だけを見据えている。
「近衛泰山。其方は、儂の小さき頃を覚えておるか」
「……ああ、覚えておりますとも。まだ躑躅ヶ崎の館も、今ほど立派ではなかった頃のこと」
泰山は淀みなく答える。
その声には、旧友を懐かしむような響きさえ混じっていた。
「ならば、其方が、儂を殺そうとしたこともか」
晴信の言葉に、板垣達は目を丸くする。
泰山はゆっくりと息を吸った。
道化の笑みが剥がれ落ち、その下から、深淵のように静かな瞳が現れる。彼は弄んでいた小枝を、丁寧に畳の上に置いた。
「……やはり、貴方様は賢い。
ええ、そうでしたな。二十年も前の話です。
初めは、貴方様を殺すために、ここへ参ったつもりであった。
それが、村上から与えられた拙者の価値でしたから」
泰山の声は、重く、低く、広間の隅々にまで染み渡る。
軽口の響きは、もうどこにもない。
「だが、拙者は元より、村上の庭で育った犬ではない。
名を捨て、身分を捨て、ただ己の策だけを売って生きてきた、そのような愚者であった」
《近衛泰山》は、開け放たれた門の向こう、春の青空を清々しげに見上げた。風が彼の白髪を揺らす。
「……さあて、どこから話すとするかの」
彼はもう、笑っていなかった。
だがその瞳は、その表情は、自らの血塗られた過去へと踏み込んでいくことを、何よりも楽しんでいるようだった。




