第百九十話 審問の、刻(二)
「――お主の思い通りには、させぬ」
晴信の声は低く、刃物のように研ぎ澄まされていた。それは怒りでも威圧でもない。ただ、冷徹な事実として、盤上の全決定権を握る者が下した最終宣告であった。
泰山は、ぱちりと無邪気に目を瞬いた。刹那の沈黙の後、わざとらしく両肩を竦めてみせる。
「これはこれは。殿にそう言われてしまっては、儂の商いは半値以下でございますなぁ」
広間の端で、近習の誰かが思わず息を呑んだ。その僅かな動揺が、張り詰めた空気をさらに硬化させる。 板垣の眉が僅かに跳ね、甘利の視線は獲物を射抜く鷹のごとく鋭さを増した。
一方、飯富は石像のように表情を消し、ただ泰山が放つ特有の“間”を凝視している。
晴信は重ねて言葉を放つ。
その語り口は静かだが、一語ごとに泰山の逃げ場を塗り潰していくようだった。
「其方は盤を整え、石を転がし、皆の足が揃う様を眺めておると申したな。
だが、その盤が武田の地の上とあらば――主の許しなく、石は置けぬ」
「……左様にございますな。地は殿のもの。
されど地がある限り、上に落ちる影は止められませぬ」
「影を語るな。筋を語れ」
晴信の一言で、場の空気が締まる。
板垣が、待っていたとばかりに歩み寄った。
「松尾泰山。改めて問う。
収穫量の虚偽申告と帳面の改竄――その手口。誰の指図だ」
「板垣殿、えらく性急じゃのお。それが最も危ういというのに」
泰山は首を傾げた。
今度は芝居ではない。その問いは本質を外していると、心底から侮蔑を含んだ落胆の表情だ。
その不遜な態度に、板垣の眼光が血走る。
「危ういだと......?それは己の立場を弁えての発言か?」
「はははっ、いやはや失敬失敬。言葉足らずでござった。危ういのは、首が落ちる方の危うさではなく――“道が塞がる”方の危うさじゃ」
甘利が、ふっと笑った。
笑みは薄く、骨だけが見える。
「ほう。道が塞がる、とな。
ならば松尾殿、その道を塞がぬように――今ここで語って頂こうか」
泰山は甘利へ視線を向け、軽く会釈してみせる。
「ほぉ、大したものじゃ。甘利殿は相変わらず、人を急かすのがお上手い……よろしい。道を塞がぬよう、お話しいたしましょう。とその前に、この両手の縄を解いていただけますかな? どうもきつくてきつくて血が止まりそうじゃ。このままでは話す前にぽっくり死んでしまうのぉ」
「解いてやれ。どうせ逃げ道などない」
晴信の短い許可を受け、側近が泰山の縄を切る。
泰山は「ふう」と長く息を吐き、鬱血した手首をさすりながら、無造作に傍らの小枝を拾い上げた。
「先ず......虚偽の申し立てについて。
これは“増やした”のではございませぬ。
逆じゃ。――少なく書いた」
「どういう意味だ」
ざわり、と小さな波が走る。
板垣の眼が細くなる。
泰山は小枝を振りながらかかかと笑った。
「そう難しく考えるでない、そのままの意味にございます。理由は一つ。余剰米を《余剰》に見せぬため。
帳面上、余りが出れば詮議される。
故に初めから、余らぬように、持たぬように書いたまでのこと」
板垣は忌々しげに舌打ちをした。
この男の言が真実ならば、検地で見つけ出した隠し米は氷山の一角に過ぎず、その背後には膨大な「存在しないはずの米」が眠っていることになる。
果たして、どこまでが真実だというのか。
この男と話すほどに、その境目が曖昧になってゆく。
「では、貴様は何のために余剰米を蓄えておる」
甘利の問いに、泰山はぱっと笑みを浮かべる。
「おお、出ましたなぁ!宝探し!
さぁて、聞きたいのはそこでしょうなぁ」
泰山は膝をぱんと叩き、一転して声を潜めた。
「……易しく申しましょう。備えです」
「誰に対する備えだ」
間髪入れずに斬り込まれた晴信の問い。
泰山は笑みをわずかに引き締め、拾った小枝で土の上に丸を三つ描いた。
「飢えへの備え。戦への備え。
またはー―米を握り人を動かさんとする者への備え」
「では貴様は、米を握る側ではない、と?」
泰山は、また軽口に戻って肩をすくめる。
「ははは、握っておれば今ごろ牢で黴を食うてはおりませぬよ。
……儂は“握る手”を探しておる側でございます」
晴信が、低く言葉を落とす。
「探しているなら、何故隠す。何故改竄する」
「隠さねば、動かぬからです」
泰山は即答する。そして一度だけ、場を見回した。目が合った者から、目を逸らさせるような視線。
「米が余っている、と帳面に書けば皆が守ろうとする。守りさえすれば、外の手は出てこぬ。
ほれ、もう誰が噛んでいるか分からぬだろう?」
「はは、《噛んでいる》か。つまり貴様は、餌を撒いたと?」
「餌というと下品ですなぁ、
せめて田を潤す“誘い水”と申してくだされ」
飯富虎昌が、静かに一言だけ刺す。
「では......其方の申す誘い水で、誰を誘ったというのじゃ」
「無論、外の手でござる。武田の蔵を狙う手。
あるいは――武田の中の誰かを使って、外へ流そうとする手、とも言えましょうな」
泰山は、ここは分かりやすく――とでも言うように、顎を二度小さく打った。
「腹が減ると、人は素直になりますからなぁ。
米の行く先に《腹を空かせたい者》がいるのか、《腹を満たしたい者》がいるのか。
どちらにせよ、米は――兵より先に征くものよ。貴方様ならばお分かりでしょう、晴信様よ」
泰山は、口角を上げる。逃げるのではない。
焦点をずらして、核心だけを残す笑み。
「誰がより、どう渡るかが要ですぞ、殿。
米は一度、武田の名を外して、荷の顔を変え渡る。
札が変わる。縄が変わる。担ぎ手が変わる。
ころころ変わり、受け取る手は、もう武田の手ではない」
「遂に吐いたな。米を外へと流しておると」
板垣の声が、畳を叩いた。
広間の視線が一斉に泰山へ刺さる。――“外へ流した”の一言は、それほど重い。
しかし泰山は、肯定も否定もせず、困ったように口端を歪めた。
「おおお、板垣殿、それは言い方が怖い。《流した》と申すと、まるで私が桶を抱えて川へざばーっと……。いや、縄は解かれたが、まだ体が鈍っていて演じにくいのう。惜しい」
「戯れ言で逃げるな!」
板垣が身を乗り出すが、晴信は微動だにしない。沈黙という重圧で泰山を縛り上げる。
泰山はひょいと顎を上げ、わざとらしく大きく肩を回した。
「逃げる? いやいや、逃げ道など初めからありませぬ。ここは甲斐……殿の掌の上でございましょう」
泰山は、板垣に向けて子供を宥めるような表情を作った。
「板垣殿、言葉が怖いと言うたのは、他でもない。《外へ流した》とすれば、儂が主犯で、儂が命じ、儂が動かした――ように聞こえてしまうではありませぬか。かような大仕事を、この老いぼれ一人で捌けると思うておいでか。
儂が申しておるのは、もっと地味な話。米が《外へ出る》際の仕掛け――それが、通常の商いとはあまりに違うという話じゃ」
甘利が、薄く息を吐く。
「違う、と言うなら。何が違う」
「段取りが決まっておる。決まりすぎておる。
誰が運ぶかではなく、いつ動かすか。どこを通すか。何で知らせるか……そこが揃いすぎておる」
《米が外へ出ておる》――そこまでは否定いたしませぬ。
ただし、儂が持っておるのは――出るときの印、通り道、合図だけじゃ」
泰山は、そこでわざと一拍置き、板垣の目を見た。
「……ほれ。聞きたいのは、そこではござろう?
同じ刻、同じ抜け道、同じ合図。
商いの癖ではない。これは“軍”の癖じゃ。
――我が武田の軍法では、ない」
「ならば、その癖とやらを持つ者の名を言え!!」
板垣の叱責に、泰山は困り顔を造る。
「板垣殿、名を口にすることは容易い。
……でも、それを言うた瞬間、殿は私をお斬りになる。斬れば癖は消え、次が掴めぬ。
その間に露が生まれ、また新たな癖が現れましょう」
「其方は、まだ“次”を見ているのか」
晴信の声音には、殺気にも似た冷徹さが宿っていた。しかし泰山は「にいっ」と道化の笑みを崩さない。
その奥底にある瞳は、冬の湖のように冷え切っている。
「ははっ、何とも愚問でございますぞ。
ええ見ておりますとも。
儂の首が落ちても、米は独りでに歩き、人も歩く。まあ何とも不思議で愉快なものじゃ!
......殿が止めたいのは、老人の減らず口ではなく――その足でございましょう?」
その瞬間、板垣の眉がぴくりと動く。甘利の視線が鋭くなる。
飯富虎昌は相変わらず黙っているが、空気だけがさらに沈む。
晴信が、短く言った。
「よい。ならば直接問う。
余剰米は、今も《北》へ動いているのか」
泰山は即答せず、計算し尽くされた間を置いた。
唇の端がわずかに震える。それは笑いではなく、獲物を罠に誘い込んだ時の、歪な悦びの形だった。
「……さあ。おいでなすった」
泰山が誰にも聞こえぬほどの声で呟いた瞬間。
外で、激しい足音が響いた。
迷いのない、速い踏み込み。
側近が身を翻し、審問の場に続く重い門を開け放つ
そこに現れたのは――
「……はっ……はっ......はあ……っ」
肩を激しく上下させ、額に脂汗を浮かべた男。
泥に汚れた草履が、地を無作法に掻く。
その姿を認めた瞬間、広間の空気は弾かれたように跳ね上がった。
「――晴幸、殿」
誰かが掠れた声で名を呼んだ。
板垣の眼が極限まで細められ、甘利は怒りとも嘲りともつかぬ複雑な顔で口角を引き結ぶ。
飯富虎昌は、ただ静かに――暴発を抑え込むようにその身を沈めた。
俺は顎をくっと引く。
“答え”を見に来た者と、“答え”を見せる者。
今、この殺伐たる舞台に、全ての役者が揃ったのだ。




