第百八十九話 審問の、刻(一)
石牢の夜は長い。
だが、その長さに慣れた頃――夜は、妙に短くなるものだ。
湿り気のある石壁。鼻先にまとわりつく黴の匂い。
どこかで水が落ちる音が、同じ間隔で繰り返されている。
松尾泰山は、その音を数えてはいなかった。
数えれば、刻が近づく。近づけば、心が揺れる。
揺れを見せるのは、まだ早い。
それでも、今宵は違った。
石の冷たさの底から、じわりと空気が変わってゆく。
囚われの者の肌は敏い。風向きが変われば分かる。
人の気配が増えれば、なおさらである。
――来たな。
牢の外で、鎧の擦れる音。足音が二つ、三つ。
そして、鍵が鳴る。
ぎ、と鉄が回り、戸が重く動いた。
灯りが差し込んだが、視界を奪われた泰山は動かなかった。
「出ろ。審問の刻だ」
牢番が、無愛想に言い捨てる。
泰山は、ようやく膝に置いていた手を動かす。
ゆっくりと立ち上がり、肩の埃を払った。
「腕を出せ」
その言葉に、泰山は従う。
冷たい縄が手首に回り、きつく締められる。骨が鳴るほどではない。
――痛みで心を乱さぬ程度。よく躾けられた縄だ。
泰山は、わざとらしく手首をひらひらと振ってみせた。
「おお、きついきつい。これでは逃げられませぬなぁ。……ん? 待てよ。そもそも逃げ場など無いか。あっはは」
牢番は眉ひとつ動かさぬ。
泰山は口元だけで笑い、続けてみせる。
「ところで、その結び目。なかなか器用じゃ。誰に習うた? 板垣殿か? それとも飯富殿か? まさかご自身――は無いか、はは」
牢番は答えない。答える必要がない。
ただ、泰山の背を押す。
石牢を出れば、空気が変わる。
地下の湿りが薄れ、代わりに土と木の匂いが混じる。
遠くで人が動く音。今日の城は、静かにざわついている。
通路を歩くたび、鎧の音が前後で鳴る。
泰山は足を引き摺らぬ。囚人の歩き方をせぬ。
それどころか、少し弾むように歩いてみせた。縄で縛られているというのに。
「いやぁ、久方ぶりの“お外行き”でございますなぁ。城の空気は旨い。牢の空気は……まぁ、味がある。黴の味が」
角を曲がるところで、泰山はふと口にした。
誰に聞かせるでもなく、ただ自分の喉に落とす言葉。
「……今宵は、永い夜になりそうじゃのう。皆々、寝不足にならねばよいがなぁ。なに、首が落ちても眠れぬ夜は落ちる。首が落ちねば、なお眠れぬ。どっちに転んでも……楽しいのう?」
牢番が眉をひそめる。
泰山は視線だけを前へ置いた。
答えは、ひとつではない。
誰が走るか。誰が止めるか。
誰が信じ、誰が斬るか。――その総てが今日、わかる。
そして、その答えの中心にいる男の名を、泰山は敢えて心の中で呼ばなかった。
呼べば、情が混じる。情は刃を鈍らせる。
鈍れば、折れる。折れるわけにはいかぬ。
階を上がる。
戸が開く。
泰山は、ほんの一瞬だけ息を吸った。
春の匂いは薄い。城の匂いが強い。
鉄と汗と、古い木の香。
やがて、広間の前で足が止まる。
扉の向こうから、人の気配が押し返してくる。
何十もの目。何十もの耳。
牢番が言う。
「入れ」
泰山は、縄で縛られた腕を少し持ち上げ、扉を跨いだ。
――審問の場
城の中庭のような場所。
上座には主の席が据えられている。
暗さを言い訳に出来ぬよう、丁度よい明るさだ。
そこで、泰山の目隠しを外されるのだった。
眩しさが、目に刺さる。
外は、快晴だった。
青が高い。雲が薄い。
不相応なほど穏やかな空だ。
この空の下で、首が落ちる。落ちぬかもしれぬ。
どちらに転んでも、空は空のままなのだろう。
そして――目前には
武田晴信。
動かぬ。揺れぬ。
ただ、そこに在る。
城そのものが人の形をとった、そんな男である。
晴信の脇には、板垣信方。
端正な顔に無駄がない。目は鋭いが、熱は見せぬ。
その少し後ろ、甘利虎泰。笑みは薄く、視線は刃の角度でこちらを測る。
さらに、空気の陰にいる男がいる。
飯富虎昌。
姿勢は静かだが、いるだけで部屋の温度が下がる。
戦場の“止め”を知る者の気配といえよう。
縄を持つ者が引き、肩が僅かに持っていかれる。
泰山は、それを堪えぬ。堪えたように“見せぬ”。
泰山は遂に、その場に膝をついた。
「松尾泰山、ここに」
側近の声に、晴信が低い声で述べる。
「顔を上げよ」
泰山は従う。
晴信と目が合う。
刃のような視線――ではない。
刃を握る手のような視線だ。
切るも置くも選べる目。
泰山は、にやりと笑ってみせた。
「おお、殿。御機嫌麗しゅう。……いや、麗しくはないか。首が落ちるか落ちぬかの刻だしのう」
泰山は笑った。
この男は、最初から“答え”を持っている。
だが答えを出す前に、盤を見切ろうとしている。
板垣が一歩進む。
「松尾泰山。
米の収穫を偽り、帳面の改竄に関わり、余剰の米を隠し置いた件。
その上、何者かが夜半に倉へ忍び入り、俵が抜かれた。
――これら一切、其方の関与が疑われておる。
其方から、何か申すことがあるか」
甘利が、薄く息を吐いた。
飯富虎昌は言葉を挟まぬ。
ただ見ている。
首が落ちる瞬間の目を持つ男は、今は言葉を使わない。
泰山は、板垣の言葉が終わるより先に、わざと長く頷いてみせた。
「ほぉー……よう並べた、よう並べた。板垣殿は相変わらず几帳面じゃのう。帳面の改竄を疑うには、まず板垣殿の筆癖から調べるべきでは? あっはは」
「貴様っ!」
側近が声を荒げかけたが、晴信が指先だけで制した。
泰山は、その様子を見て肩をすくめる。
「冗談じゃ。冗談。――半分ほどな」
泰山は、首を少しだけ傾げた。
その仕草は芝居がかっている。わざとだ。
相手の苛立ちを誘い、足元を揺らすための軽さ。
「……で。疑い、とな」
声は軽いが、芯だけは落とさぬ。
ふざけているようで、決して崩れぬところがある。
「疑いとは便利な言葉じゃのう......されど」
泰山は晴信を見た。
晴信の目は変わらぬ。まだ刃を落としてはいない。
泰山は口角を上げ、楽しげに言った。
「殿は、《誰が》動いたかを見ておられるのであろう?
疑いの中身ではなく、疑いの走り方を。
わしはのう、殿。
疑いの火種を撒けば、誰が水を運ぶかを見られると思うてな」
その一言が、場の芯を突いた。
晴信の目が、ほんのわずか細くなる。
泰山は、再びふざけた調子に戻す。戻し方が鮮やかだ。
「ほれ、疑いとは便利な言葉じゃろ。
疑いたくば疑えばよい。疑えば皆が動く。
働き者ばかりで、武田の御家は安泰ですな」
挑発であり、媚びでもある。
どちらにも見えるように置く。だが、次の瞬間、泰山は遊びを切り落とす。
「じゃが、殿が見ておられるのは“罪”ではあるまい」
「其方が用意した盤か」
泰山は、わざと困ったように目を泳がせ、肩を竦めた。
「いやぁ……殿。盤を用意したのが儂なら、儂はなかなかの名人でございましょうな……そう言いたいところですがねぇ」
泰山は、にいっと笑い、言葉の調子をさらに軽くする。
「盤は盤。石は石。
置くのは皆々。儂は……転がりやすい石を、ちょちょいと磨いただけでございますよ」
縄が、泰山の手首を締める。
泰山は痛みを顔に出さず、逆に「おっと」と面白がってみせた。
「おお、締める締める。怖いのう。
――さてさて、殿」
泰山は息を吸い、楽しげに呟いた。
「我が盤が陳腐なら、笑うて踏み潰してくだされ。
上等なら――存分に、打ち合いましょうぞ」
晴信の指が、わずかに動いた。
誰も気づかぬほどの動き。だが泰山は見た。
泰山の笑みは、なお崩れぬ。
崩れぬまま、道化の軽さで刃を招く。
「……ほれ。もう既に、面白い」
――こうして、泰山をめぐる審問は始まったのである。




