第百八十八話 其々の朝、言伝
鶏の声が、半ば眠ったまま屋根を叩いた。
昨夜の冷えが畳の芯に残り、足裏にじっとりとまとわりつく。
春とは思えないほど、冷えた頃。
――嫌な朝だ。
また、同じ夢を見た。
ただ胸の奥に、氷を割るような軽い音だけが残る。
身を起こすと、襖の外で控えめな気配が揺れた。
「晴幸殿……お目覚めですか」
若殿の声。
寝所の外で、こちらの息の整うのを待っていたようだ。
「ああ、起きておる。入れ」
襖が滑り、若殿が顔を覗かせる。
どうやら夜更けまで起きていたようだったが、眼は澄み、背筋はまっすぐだった。
それが余計に胸へ刺さる。守らねばならぬものが、そこに立っているからだ。
「朝餉は、もう少しで整います。弥兵衛様も」
若殿の言葉の裏にある問いを、俺は見逃さなかった。
晴幸は湯呑みを受け取り、口を湿らせた。
苦い。舌に残る苦みが、思考を落ち着かせる。
「若殿。今日一日、表へ出るな」
若殿の肩が、僅かに動いた。
「……しかし」
俺は若殿に向け、優しい笑みを浮かべた。
それは一種の強がりか、はたまたー
「朝餉の後に儂はすぐ出立し、夕刻には城へ向かう。審問の刻限までに、儂は糸の端を掴まねばならぬのだ」
その言葉に、若殿は唇を結び、頷いた。
「不便な思いをさせて、申し訳ないと思っておる。弥兵衛にはすぐ城下へ走らせる。お前は此処にいよ。もし何者かが来ても、戸を開けるな。名を告げても、出るでないぞ」
「……分かりました。お気をつけて」
俺は立ち上がり、羽織を手に取る。
そして、俺はごくりと唾を飲み振り返った。
「そうじゃ。
若殿、儂から其方に伝えたいことがある。
明日、共に市へ行こう」
その時、若殿の目が少しだけ輝いた。
それを見届け、俺は屋敷を後にする。
朝餉の香りが、まだ遠い。
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暇を頂き、九日目の朝。
審問の日には、不相応な程の快晴である。
屋敷の裏手へ回ると、庭木の露が朝光を弾いている。
俺は目を細め、その露を指で払う。
その時、井戸端から、ふいに気配が立った。
足音はない。だが、息遣いが妙に整いすぎている。
晴幸は振り返らずに低く問うた。
「……姿を見せよ」
返事はない。
だが暫くして、植え込みの影から男が姿を現した。
「山本様」
それは、作兵衛だった。
晴幸は再び、男と相対する。
頬は削げ、眼差しは虚ろに彷徨っている。
それでも、晴幸と目が合った刹那、その瞳の底が激しく揺れた。
呼び声こそ丁寧なれど、声は枯れ果てている。
晴幸は作兵衛を凝視した。
乾いた唇、袖口に残る藁屑、そして土に汚れた指先。
名を呼ぶだけで、胸の底に澱が沈むようである。
この男は五日前まで、確かにこの屋敷にいたのだ。
それが、ある日突然、影のように消え失せた。
「この数日、いずこに身を潜めておった」
作兵衛は答えず、ただその場に片膝をついた。
沈黙こそが答えであると言わんばかりの様に、晴幸は眉間に皺を寄せるのである。
「申せ」
「……村へは戻っておりませぬ」
「戻らずして、どこにおった」
「城下の外れにございます。……朽ち果てた物置小屋で、人の寄りつかぬ、打ち捨てられた地にて……」
「身を隠し、何をしておった」
「松尾様の御指示にございます」
松尾泰山の指示、だと?
俺は言葉を飲んだ。
命じた者の名を、作兵衛はこれまで決して口にしなかった。いや、口に出来なかった。
その苦悩が今になって伝わってくる。
「松尾殿が、其方に身を隠せと命じたと申すか」
「はっ……審問の日まで、姿を現すな、と……私は、ただの言伝役に過ぎませぬ。《聞かせるための言葉》だけを吐けと、そう命じられたのでございます」
「《聞かせるための言葉》とは、何だ」
作兵衛は喉を鳴らし、苦渋を飲み下すように絞り出した。
「……『山本様は、まさか裏切りは致しませぬな』と。それを、人の耳目がある場所にて口にせよと、そう命じられました」
晴幸は沈黙した。
作兵衛の様子を見るに、嘘は言っていない。
それに作兵衛の口調には、それ以上に抑えきれぬ「疑念」の匂いがあった。
「それは、泰山殿の言葉か」
「左様にございます。されど、某自身も恐ろしゅうございました」
「何がだ」
「泰山様が……己をも試すような、冷徹な目をされておられた。御自分を疑わせ、御自分が斬られる盤面を整え……それでいても、心は何故か鏡のように平らでございました」
疑いは、作兵衛の本心であった。
だからこそ、あの問いが生まれたのだ。
晴幸は、ここで初めて作兵衛の真意を受け取った。
「……山本様には、何ひとつ悟らせるな、とも。
故に、審問の日まで惑わされた風を装い、距離を置けと命じられました」
「“見せる”ために、儂を遠ざけたというのか」
「はっ……周囲には目があり、耳がございます。疑念が広がれば、必ず動く者が現れる。その不逞の動きを、泰山様は見たいのだと……」
そして作兵衛は、胸に秘めた「真の言伝」を置いた。
「……山本様。裏切りなど、断じて致しませぬな」
それは他者に聞かせるための台詞ではない。
確かめたい、しかし確かめるのが恐ろしい。
そんな血を吐くような問いであった。
そんなもの、愚問だろう。
俺は、短く断じた。
「致さぬ」
それだけで、作兵衛の肩から力が抜けた。
救われたのか、あるいはさらなる深淵へ踏み込んだのか。
それは俺にも、作兵衛自身でさえ分からぬことだった。
「......ご無礼を、どうかお許しください。
代わりに一つ、お伝えさせてくだされ。
此処までの言伝は全て、予め晴幸様に伝えるつもりでございました。
ただ、これよりは泰山殿にもお伝えするなと告げられております、聞いたことは、どうかご内密に」
俺はああ、と返し、作兵衛はゆっくり顔を上げた。
「泰山様は……私を呼び止め、最後に小声でこう仰いました。『これまでのことは、全て演技である』と。そして『儂は、山本晴幸という男を信じておるのだ』と」
その言葉を口にした瞬間、作兵衛は俺の目を見た。
それは、これまで俺に向けていた作兵衛の目、そのものであった。
ああ、そうか。
松尾泰山、お前は、気づいて欲しかったんだな。
《此処まで武田が、一金貸しであるあの男を擁護するのは何故か》
晴幸は羽織の紐を強く結び直す。
「作兵衛。其方を疑ってしまい、誠に辱い。
今後も松尾殿に命じられた通り、審問の刻までは儂を遠ざけよ。
だが、目は逸らすな。夕刻までに、必ず動く者が現れる……その動き、漏らさず儂へ繋げ」
それを耳にし、作兵衛は深く、深く、首を垂れた。
「御意」
伸び切った二つの影。
朝の光が強まるほどに、影は色濃く落ちる。
宿命の審問は、刻一刻と迫っている。
次回、審問の刻




