第百八十七話 薄氷、前哨戦
夜がほどけ、朝が滲み出す刻。
東の空はまだ薄鼠。
山の端だけが白み、鳥の声も途切れ途切れ。
屋敷の庭は夜露に濡れ、踏めば砂利が鳴る。
人の気配はあるのに、それをいとも感じさせない。
そんな静けさが残っていた。
幸綱は屋敷裏手の小祠へ向かう。
家人が目を覚ます前。朝餉の煙が立ち上る前。
この刻しかないと知っている歩き方だった。
祠の前に水鉢。
水面には薄氷が張り、夜の名残を閉じ込めている。
幸綱は膝を折り、指先で氷を割った。
ぱき――。
朝の静けさを裂くには、十分な音。
割れた水面に、白みゆく空が映る。
映らない影。映るはずのない気配。
同じ背格好、同じ顔。
だが、立ち方が違う。息の置き方が違う。
刀を差しておらずとも、《刃の重さ》を纏う男。
本物の真田幸綱が、そこにいた。
男は、笑わぬ。怒りも見せぬ。
ただ、朝の霞のように淡く、確かな声を落とした。
「……この刻に呼ぶとは、急ぎの用か」
偽物の幸綱は振り返らずとも、水鉢の縁に手を置いた。石の冷たさに、骨まで冷える感覚を覚える。
「用はある。泰山のことだ」
「松尾泰山か」
「名はそう呼ばれておる。だが……其奴はただの男ではあるまい」
幸綱は息を吐いた。白い息が水面を曇らせる。
水面には、依然本物の姿は映らない。
「米だ。米が北へ渡る......否、渡るはずであったものが、戻っている。水路に籾が混じっておった。俵が裂けた様子もない。つまり、落ちたのではない。落としたのだ」
「それは誘いか」
「誘いじゃ。泰山は自分が黒である盤を揃え、こちらに《白へ返せるか》と迫っておる。だが、その白は情けではない。まるで戦の合図じゃ」
夜明けの風が榊を鳴らす。さら、さら、と薄い音。
本物の幸綱は、朝靄の向こうで静かに頷いた。
「米は、かの地へか」
かの地、それが何を指しているのかを悟り、幸綱は眉を動かした。
「ああ、其方の思っている通り、籾の筋が北へ向き、北の誰かが受け取る。なれば、受け取るに足る相手は限られるものだ」
《偽物》は続ける。言葉を一つずつ、石のように置く。
「泰山は、武田に情が移ったふりをしておるようで、実のところ情に移った己を試しておる。故に自らを黒とするのだ。黒のままであれば、斬られて終わる。斬られて終わるなら、情は要らぬ……だが其奴は橋を残した」
「山本晴幸、奴がその橋を渡れるか、か」
「……左様」
「其方はどう見る」
「晴幸は渡る。寧ろ、渡らねばならぬ運命であろう。だが本質はそこではない。渡る先で、泰山を白に返したとしても……御家は戦へと流れるであろう。泰山は、そこまでも考慮しておるのだろうよ」
松尾泰山。自身が会ったこともない者に向ける、恐れ。
夜が完全に明けきらぬ刻。
屋敷の奥から、遠くに湯の沸く音がした。
まだ小さい。まだ朝の気配は薄い。
幸綱は言葉を急がぬ。急げば糸が切れる、と知っているためだ。
「本物よ。本日夕刻、泰山を処するか否かの審問がある。その刻限までに、某は何をすべきだ」
「何を望むか、によるであろう」
「松尾泰山を救う道だ。だが救いが、武田を滅ぼす救いであってはならぬ」
水面の本物は、しばし黙った。
薄氷の欠片が、ゆっくり端へ寄っていく。
「……三つだ」
「申せ」
「一つ。米の在処を掴む。ただし掴むのは俵ではない。運ぶ手だ。手を掴めば、俵は勝手に転ぶ。
二つ。改竄の刻を定めよ。泰山捕縛の前か後か、それだけで盤面は反転する。後なら冤罪の骨が露わになる。
三つ。松尾泰山の正体を名で追うな。名で追えば口が閉じる。物で追え。札、帳面、籾、印、道筋。――触れた痕を拾え。痕は口ほど嘘をつかぬ」
幸綱は頷く。
やはり一心同体とあらば、考えていることは同じだ。
胸の中で、石が一つずつ収まる音がした。
「ならば今朝、まず動くは水路か」
「水路は見よ。だが飛び込むな。水路は餌にもなり、そこには刃が散らばっておる......そして」
「そして、何じゃ」
「晴幸に任せ過ぎるな」
「何故」
「情が先に走る。情が走れば刃が落ち、奴は死ぬ」
朝の風が少し強まった。
屋根の端から、雫が落ちる。
ぽと、と、間の抜けた音。
本物の幸綱は、水面から視線を上げた。
薄鼠の空が、わずかに青へ移ろうとしている。
「行け。人の目が開く刻だ」
「待て」
「明朝のうちに動け。夕刻までに掴むべきは首ではない。糸の端だ」
影が、ゆっくり薄れる。
沈むのだ。底へ戻る。いつでも浮かべる場所へ。
去ろうとする影へ、幸綱は言葉を投げた。低く、鋭く。
「……一つだけ、聞かせよ」
水面が、僅かに揺れた。
幸綱は続けた。逃がさぬ。
これは、逃がしてはならぬ問いである。
「本物よ。其方は……この身を奪うつもりか。我が魂を、喰らうつもりか」
朝靄の向こうの影は、しばらく沈黙する。
鳥が一声鳴き、屋敷の奥で戸の軋む音がした。
朝が始まる音だ。
「奪うのではない」
「ならば何だ」
「......取り戻す」
幸綱の喉が鳴る。
本物は続けた。声音は冷たいが、そこに嘘はない。
「其方が折れれば、隙は広がる。さすればそこに付け入られるであろうよ」
「我を押し退けるのか」
「押し退けるのは、其方が空けた時だけじゃ」
水面の影が、最後に一言だけ落とした。
「......だが、儂はそれを望んではおらぬ。折れるな。折れねば、奪いようもない」
そう述べ、影は沈んだ。
水鉢には、明け始めた空が映るだけ。薄氷の欠片がゆらゆら揺れ、静かに端へ寄る。
幸綱は立ち上がった。膝の冷えが骨に残る。
庭の向こうで、朝餉の煙がようやく立ち上り始める。人の声が一つ、二つ。犬が吠える。
幸綱は目を閉じ、ゆっくりと息を吸った。
夕刻まで、刻は短い。
泰山を斬らせぬために、糸を掴む。
決して、隙を見せぬように
幸綱は白み切った庭を踏み、屋敷へ戻った。
朝の音が背を追い、夜の影がまだ踵に絡んでいる。




