第百八十六話 凍えた、静寂
躑躅ヶ崎の夜は、冷える。
冷えるが、それ以上に――静かすぎる。
主殿の奥。灯明は低く、障子の白だけが闇を薄めてくれる。
晴信は机上の帳面を伏せ、指先で墨の筋をなぞる。
見た目は折れた線だが、折れていないふりをする線。嘘とはいつも、【骨を装う】ものだ。
意識を奪われかけたその時、近習が畳の縁で膝をついた。
「殿。板垣信方、密かにお目通り願いましてございます」
「通せ」
襖が滑り、板垣が入る。
「夜分に失礼仕りまする」
「詫びは要らぬ。掴んだものがあろう」
「はっ」
その言葉と共に、板垣は息を整える。
「日中、倉筋と村方を当たりました。
村の者どもは、一連の出来事に関与しておらぬ様子……されど」
板垣はそこで言葉を切った。切り方が慎重だった。
知らぬのではない。知っていて、言わぬ。
その沈黙の理由が、村方にはあった。
「名を尋ねれば返しが鈍り、答えた途端に言葉を噛み潰す。
……どうやら恐れておるのは罪そのものではなく、口を開いた後の始末にございましょう」
それを聞いた晴信の指先が、帳面の墨線で止まる。
「倉番へは、敢えて触れておりませぬ。
其奴が怪しいことは百も承知。
ただ、我らのごとき役目の者が近う寄れば、泳がせておる糸が切れましょう。
真実に届く前に、相手へ逃げ道を与えるやもしれませぬゆえ。
代わりに見届け申したは、動きにございます。
倉番は夕刻、倉を離れ、宿へ戻る。その道筋は毎夜変わらず。
……まるで《見られてはならぬ》とでも申すような歩き方にございました。
また、米俵が抜かれたと囁く者もおりますが、盗賊のごとき荒さがござらぬ。
荒らされたのではなく、荒れたように《見せた》跡――その手触りにございます」
晴信は帳面を閉じ、畳に置く。
その妙に重い音に、板垣は息を呑んだ。
そのまま晴信は立ち上がり障子の方へ歩く。
外は暗闇、在るのは風の音のみ。
「人を動かすな」
その闇に向けるように、晴信は言った。
板垣の息が止まる。晴信は振り返り、淡々と続けた。
「人が動く『理』を動かせ。
口が閉じるなら、口ではないものに語らせよ」
「……物にございますか」
「帳面、札、籾、俵。触れた者の手に痕が残る。痕は口ほど嘘をつかぬ。
また、城内の見張りは固め過ぎるな。
固めれば相手は必ず、別の道を作る」
「……敢えて、泳がすのですか」
「その隙を、捕らえるのだ」
板垣は一息置き、最後の問いを投げる。
「晴幸殿へは――」
その名が出た瞬間、晴信の沈黙が一拍だけ長くなった。
板垣は、晴幸が村にいるなど露ほども知らぬ。
駿河にいると信じ、知らせれば良いと思っている。
晴信は目を上げずに言った。
「今は要らぬ」
「……しかし」
「知らせれば糸が増える。糸は今、増やすな」
必要な時に、必要な形で引くべきだ。よいか。
今夜は首を取るな。取るのは糸の方じゃ。糸の端を掴め。掴んだら離すでないぞ」
板垣はそれを聞き、襖の前で礼をし、静かに退いた。
襖が閉じると、夜が戻る。
静かすぎる夜だと、晴信は息を吐く。
あやつは多くを語らぬ。
猶予はないぞ、晴幸。
呟きは音にならず、胸の底へ落ちた。
その名を口にした瞬間、胸のどこかが僅かに軋む。
助けを求める訳ではない。命じる訳でもない。
ただ、確かめるための言葉である。
晴信の指が、再び帳面の端を押さえる。紙の冷たさが掌へ染みた。
松尾泰山――あの男の名が、今宵もまた、帳面の隙間から滲み出してくる。
疑いをまとい、疑いを呼び寄せ、疑いの火で人を炙る。
自らを黒と置き、我らが白へ返せるかを試す。
奴の目的は、そんなところだろう。
それは愚かに見えて、愚かさを装っているだけである。
晴信は知っていた。泰山は、ただの策士ではない。
《策が命を喰らうこと》を、よく知っている者の目をしているのだ。
灯明の火が、ゆらりと揺れた。
風ではない。心のうねりが、室内の空気を動かしたようだった。
――昔のことを思い出す。
晴信は、帳面から目を離した。
遠い目になった自分を、自分で意識する。
意識した瞬間、記憶は隙間から忍び込んでくる。
望もうと望むまいと。
冷たい川の匂い。
苔の湿り。水面に落ちる月の欠片。
あの日も、静かな夜だった。
幼い頃の手は小さく、握りしめた石ひとつでさえ重かったものだ。
冷たい。
足元から、ひやりとした感触を覚える。
水際に立つ影があった。大きい影。
近づけば、声が届くほど近い。
その影は笑ってはいなかった。怒ってもいなかった。
ただ、決められたことを遂げる者のように、淡々とした気配をまとっていた。
晴信は、己が幼いままの視点でその背を見ている。
背はまっすぐで、迷いがない。迷いがないということは――刃物より冷たい。
そして、何よりも恐ろしいのは、その背に敵意が見えぬことだった。
その時、ふいに影が振り返った。
闇の中で、目だけが光っていた。
火ではない。獣のような光でもない。
人の目だ。人の目で――人を測る目。
幼い晴信は、息を呑んだ。声が出ない。
だが、目だけは逸らさなかった。逸らせなかった。
怖さより先に、何かが胸を叩いた。
それが何であったか、今も言葉にできない。
影は、ほんの僅か、動きを止めた。
その一拍が、夜の音を変えた。
水の流れが少しだけ大きく聞こえ、草の擦れる音が、刃のように耳へ触れた。
――あの一拍で、何かが折れた。あるいは折れぬまま、別の形へ曲がった。
幼い晴信の前で、影は刃を振り上げることはなかった。
代わりに、川面を一度だけ見下ろし、そして――何事もなかったかのように背を向けた。
去っていく足取りは静かで、しかし確かに重かった。
その背中が、今の泰山の背と重なる。
重なるからこそ、晴信は腹の底が冷える。
あの夜、誰が誰を見逃したのか。
見逃されたのは自分か。
見逃したのは――あの男か。
「……っ」
晴信は、灯明へ視線を戻した。火は小さく、しかし消えぬ。
その灯の揺れが、泰山の行く末を映しているように思えた。
もし泰山が斬られれば、全てが収まるか。
否。収まるのは表面に揺らぐ波だけだ。
その根底で動くものは名を変え、形を変え、次の夜へと渡っていく。
――泰山。お主は何を望むというのだ。
問うたところで、答えは返らぬ。
あの男は、答えを言葉で返さぬ。
だからこそ答えは、常に“盤面”で示す。
晴信は、障子の向こうの闇へ目をやる。
風が、庭木を鳴らす。音は小さい。
だが、はっきりと境界を知らせる音だ。
明日の夕刻、全てが決まる。
泰山が黒として斬られるか。
それとも黒を黒のまま抱え、白へ返す道を見つけるか。
晴信は、ゆっくりと息を吐いた。
吐いた息は冷えた室内で白くならぬ。だが胸の内だけが、白く濁る。
「……生きよ」
灯明の火が、また一度だけ揺れた。
晴信はその揺れを見届け、帳面を静かに閉じた。
刃はまだ落とさぬ。
落とせば、望む形で血が流れる。
望む者がいる限り、当主は“望まれる結末”を選ぶわけにはいかぬ。
任せたぞ。晴幸よ。
鬼さながらの睨みを利かせながら、晴信は暗闇に背を向けるのだった。




