第百八十五話 沈黙と、救いの手
夜が、村を覆っていた。
人の気配はある。だが灯りは少なく、戸は早々に閉ざされている。
俺は外套を深く被り、倉の並ぶ一角へと足を運んでいた。
――倉番。
昼間、弥兵衛が話していた男。
そして今夜、会話を盗み聞いた影。彼の屋敷である。
『米の収穫を偽り、帳面が改竄され、隠し倉が見つかった――
その一切に、倉を管理する者が関与していると考えるのは自然だ。
また倉番は持ち場から宿へ戻る際に、毎夜この道を通ることは知っておった。
宿へ至る道は三つあるが、一つは夜は閉ざされている。
またもう一つはぬかるみ・水路・崖沿いであるため夜分に通るものはいない。
残り一つの道を使うことになるわけだが、それはこの屋敷の前を通る道である。
倉筋から宿へ戻る道は、ちょうど儂の屋敷の裏手をかすめる。声は届く距離じゃ。
故に、わざと奴が御役を解かれ宿へ向かう時間に合わせ、事の委細が聞こえるよう話した』
幸綱は倉番を「犯人」として炙り出すためではなく、
逃げるのか、はたまた誰かに知らせに行くのか。その反応を確かめるためだった。
結果、倉番は逃げ、自身の屋敷へと戻った。
それだけ分かれば、十分だった。
最初から、倉番の男に話を聞かせるための布石。
その為に、外から俺の座っている位置が見えない角度で、わざと襖を少しだけ開けていたこと。
俺には微塵も気付くことが出来なかった。
奴の推理力と実行力には、つくづく驚かされる。
俺は歩を進めながら、小さく身震いした。
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倉の前に立つと、鼻先に僅かな異臭が届いた。
湿った木と、乾いた藁の匂い。
倉の前で、何かが微かに光を返した。
「…これは」
小さな木札。紐が切れ、土に汚れている。
俺は息を殺し、その木札に手を伸ばした。
触れた瞬間――。
ざわり。掌の奥で何かが蠢き、視界が一瞬で白光に包まれた。
俺は辺りを見回す。遠くに、二人の影が見える。
その時、聞き覚えのある声が流れ込んできた。
――書け。
――刻は今だ。
――真名も出すな。
――己がやったことにせよ。
「……っ!」
ふと気付けば、そこは暗闇の中であった。
俺は先程までの言葉を、脳裏に反芻する。
そこに一切の感情はない。
【真名】
その言葉に妙な引っ掛かりを覚えつつ、俺は木札を懐に収める。
すると、屋敷の中から物音がした。
何かが崩れ、男の荒い息が漏れる。
「……ちがう……俺じゃない……」
その声は、泣いていた。
だが、誰に向けての言葉でもない。
俺は戸を叩くことなく、声をかけた。
「――倉番殿」
びくり、と中の気配が跳ねる。
「落ち着け。誰も責めに来たわけではない」
暫くの沈黙。やがて、戸の向こうで何かが擦れる音がした。
「……領、主……さま……?」
戸越しの声は、震えている。
その震えは、罪悪感ではない。理解できない恐怖そのものであろう。
「改竄された帳面について、聞かせてほしいだけだ」
「……やは、り、知っ…て……」
言葉が途切れる。
その隙間に、別の気配が割り込む。
俺は思い出した。石牢の中で、泰山が放った言葉。
『――忠義とは、試されるものだ。』
俺は、あえて一歩踏み出した。
「儂には判る。其方は何者かに命じられた。それは誰にとっての裏切りではない」
「……俺は……悪くない……」
戸の向こうで、嗚咽が漏れた。先程と同じ言葉。
その声に目を細め、俺は目前を睨む。
見ているな、松尾泰山。
だが、俺は刃を抜かない。詰問もしない。
領民は、誰であろうと味方だ。決して殺させはしない。
「松尾殿に、命じられたな」
「……っ」
沈黙。
長い沈黙ののち、倉番の喉が、ひくりと鳴った。
「……言え……ませ……」
「言えぬ、ではない。言うのじゃ」
俺は低く言い切ったが、戸の向こうで何かが崩れ落ちる音がした。
しばし、雨音にも似た沈黙が流れた。
俺は、それ以上詰めなかった。
一歩、戸から距離を取り、声の調子を落とす。
「……弥兵衛から、話は聞いておる」
その一言に、戸の向こうで息が詰まる気配がした。
「余剰の米を隠すよう命じられたこと。
だが、その訳は告げられなかったこと。
夜更けに何者かが倉へ忍び込み、米俵を抜いたこと。
何者の正体について、其方はその時も黙っておったな。否、黙るしかなかったのだろう。
でなければ、松尾泰山も、其方も殺されてしまうためじゃ。違うか?
だからこそ、我らに悟ってほしかったのだろう」
「……」
俺は、あえて淡々と語る。
責めるでも、疑うでもない。
何かが軋む音がした。
倉番が、膝を折ったのだと分かる。
「……俺は……俺は、言われた通りにしただけで……」
「分かっている。其方は米を盗んでなどいない。
改竄したのは確かだろうが、理由なくやったわけではないだろう。
其方はこの村を、儂を、裏切ってなどいない」
その言葉に、戸の向こうで嗚咽が弾けた。
「……備えだと思ったんだ……凶作に備えるとか……戦のためとか……上の役人達が決めることだろ……?
俺みたいな倉番には、その意味など聞かされるはずがない……!」
言葉が途切れ、次の声がひどく掠れた。
「……なのに……俺のしたことで......泰山様が……捕まって......殺されるかもしれない......
俺が……俺が書き替えたから……“ほら謀反だ”って……そう言われたら……!」
俺は、否定しなかった。
「名を言えば……俺は口を割ったことになる……」
「……うむ」
「それで……泰山様が……」
「……」
そこで、声が潰れた。
先程の【真名】という言葉。
それはやはり、松尾泰山とは異なる意味を指しているのだろう。
それが喉の奥で、刃のように男を黙らせていた。
「今は、名を出さずともよい。
言えば、其方は役目を終えたと見なされる。
それは、誰がためにもならぬ。だが......
其方が何を守ろうとしたのかは、話せるはずだ」
「駄目だ……言えば……村が……巻き込まれる。
俺だけじゃ済まねぇ……家族も……領主様も......」
その言葉が出た瞬間、俺は確信した。
それは懇願でも、脅しでもなかった。
恐怖で縛り、沈黙で働かせる。
命令で動かしながら、責任は当人に残す。
――そして、冤罪の形に落とし込む。
(泰山……お前は)
自らが謀反と疑われる盤面を作り、
それでもなお、救える余地を残している。
それを覆せるかと、奴はそう言っている。
倉番の呼吸が、少しずつ整っていくのを感じた。
俺は戸に向かい直す。
「倉番殿。今夜、ここに儂が来たことは誰にも言うな。
黙っていれば――其方はまだ使える。
駒であるうちは、殺されぬ」
我ながら酷い言い方だと思う。
だが、綺麗事で救って、明日首が落ちては意味がない。
しばらくして、戸の向こうから、わかった。と小さな返事が返る。
俺は頷き、木札を握ったまま背を向けた。
「もう一度だけ聞く。余剰の米を守ったのは、飢えを防ぐためか。
それとも――『誰かを生かす』ためか」
言葉が出ない。
その沈黙が、答えだった。
俺は口元を引き結び、夜空を見上げる。
雲の向こうで月が鈍く光っている。
冤罪は、まだ完成していない。
だが、盤はもう軋み始めている。
――晴信を試す罠を、逆に利用するしかない。
俺は城の方角へ歩き出した。
背後で倉番の嗚咽が、夜に溶けていく。
その声は、ただの恐怖ではない。
生きたいという、卑しいほど真っ直ぐな祈りだった。
そして俺は、その祈りを捨てるわけにはいかなかった。




