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武田の鬼に転生した歴史嫌いの俺は、スキルを駆使し天下を見る  作者: こまめ
第5章 十日間の、災厄 (1547年 3月〜)
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第百八十二話 名残と、溶ける影

 灯りの消えた室内に、まだ夜の名残が漂う。

 まどろむ意識の中に、俺はいた。


 そこは城内の一室、夕焼けに影を伸ばす。

 甲冑に身を包み、重い鉄の臭いが鼻腔を満たす。

 身体は俺のものでないように重く、意思と言葉が互いに引き裂かれている。


 目の前の影は倒れている。顔は暗くて見えない。

 俺はその影に馬乗りになり、短刀を掲げている。

 見ることを拒む自分と、見てしまいたい自分が互いに押し合っている。

 頭の奥で、繰り返し同じ声が囁く。


 ミテハナラヌ。

 ミテハナラヌ。


 己の中の異物(・・)が語りかける。

 同時に、別の何か、記憶か欲動が、強い力で俺の腕を動かす。

 腕は勝手に上がり、冷たい短刀を握らせる。

 息は堰を切ったように浅く、心臓は凍るほどに速い。


 「やめろ」と心が叫んだ気がした。

 だが口は閉ざされ、筋肉は別人のものだ。

 目は虚ろ、まるで凍りついてしまうほどに、冷酷な目を向ける。

 意思と身体の誤差が広がるたびに、胸の奥の葛藤は鋭く、蝕むように疼く。

 自身を責め、同時に自分を弁護したい自分がいる。なぜ躊躇うのか、なぜ動くのか。能動と受動がねじれ合い、答えが出ないまま刃は振り下ろされた——


 一度、二度、三度——金属音も喚声もない。ただ生ぬるい衝撃と、掌に伝わる湿りだけが確かに残る。

 影は遂に俺の腕を掴み、苦しそうに声を漏らす。

 だが、俺には何も聞こえなかった。


 返り血はくつわのように俺の視界を縛らず、むしろ世界の色をゆっくりと塗り替えていく。

 最初は一点、次に筋、やがて薄い膜のように畳の上で広がる。

 畳は銅色に淀み、温度を増し、夢の輪郭が赤味を帯びて溶けていく。


 いやだ



 その色の広がりを見ながら、俺の内側では別の光景が走馬灯のように巡る。

 全部が刃の振り下ろしとともに、断片となって散る。


 いやだ



 それは、俺自身俺の記憶、転生前の己自身である。

 些細な記憶ほど、残酷に鮮やかだった。


 「それでよいのだ、転生者よ。」


 微かに声が聞こえた。

 世界が赤で満たされていくその様は、外的な惨状というより内的な染みのようだった。

 舌先にかすかな鉄の後味が残る。光はそれでも優しく、しかし以前とは違う色調でしか届かない。

 世界は一度に変わったのではなく、何度もの振り下ろしが積み重なって変容を完了した。




 




 俺は動きを止めた。

 何十回と、数えきれないほどに振り下ろした短刀は、鮮血に染まっていた。

 影は既に、ボロボロになった畳の上で動かなくなっていた。

 俺は遂に、短刀を落とす。


 


 赦しを求める声と、沈黙。

 残るのは変わりゆく色彩と、そこで息を詰める自身の存在だけ。

 夜の名残が窓辺にこびりつくように、あの生ぬるさは夢から現実へと──


 短刀が地に刺さった瞬間、

 胸の奥で凍りついた感覚と共に、全てが暗闇に沈んだ。















 「はぁっ!!!!」



 目を覚ました俺は、飛び起きる。

 そこは間違いなく、自身の屋敷であった。


 「はっ......はっ......はぁ......」

 息遣いが荒い。久方ぶりの感覚である。


 なんだ、あれは。

 顔に手を当て、俺は気づく。

 (スキル)による仕業なのだと、気づくのに、時間はかからなかった。


 俺が、誰かを殺す?

 もしや、泰山を.....?俺が、殺すというのか...?


 呆然とし、俺は首を振る。

 まだ朝の光は淡く、障子を通して柔らかく室内を照らしていた。夢の冷たさが指先に残る。呼吸を整えながら、布団を払い、俺は立ち上がった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 「は、晴幸殿、おはようございます」

 

 居間に向かうと、若殿は既に朝食の準備を終えていた。

 朝食の膳につき、弥兵衛が静かに湯気を見つめている。

 そこに、作兵衛の姿はなかった。



 味噌汁の香りと飯の温かさが、夢の重みを少しだけ溶かす。

 俺は一度箸を手に取ったが、すぐに置いた。

 「...すまぬ、飯はもう暫し、後にしてくれぬか」

 俺の言葉に察した若殿は、ゆっくりと微笑んだ。


 

 思考の中で昨日の情報を整理しながら、俺は屋敷の裏手へと歩みを進める。

 朝の光は柔らかいが、木々の影はまだ濃く、冷たい風が吹き抜ける。

 泰山と己自身、そして武田の行く先――全てを問われているように感じた。


 小道の突き当たりに差し掛かると、影がひとつ現れた。

 木漏れ日の中、静かに立つその人物。

 足音ひとつ立てず、呼吸も穏やかに近づいてくる。


 「随分と思い悩んでおるな、晴幸殿よ」

 「...幸、綱...」


 俺は呆然とし、直ぐに我に返る。

 なぜ俺がここにいる事を知っていたのか。

 そう思いながら、俺は悟った。この男は、こういうやつだったと。


 幸綱の目は、俺の内面を見透かすように静か。

 昨日までの混乱、泰山の運命に揺れる俺の心、そして夢にまで映った自身の決断の重み――

 奴の術を持ってすれば、すべてお見通しであった。


「……其方は、ここに来るべきではなかった」

 俺の声は低く、だが背筋に響く重みがある。幸綱は目を細める。

 俺は拳を握り直し、静かに息を整える。刻限まで残された二日間。

 すべては、この二日間にかかっているのだ。


 「...本物(・・)と話がしたい。変わってくれぬか、晴幸殿よ」


 その声に俺は視線を上げ、幸綱と目を合わせる。

 俺自身は、あの時の作兵衛のような、虚な目をしていたに違いない。

 そこに立つ幸綱は鋭く、冷ややかな目を向けていた。


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