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武田の鬼に転生した歴史嫌いの俺は、スキルを駆使し天下を見る  作者: こまめ
第5章 十日間の、災厄 (1547年 3月〜)
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第百八十一話 影の橋、風の兆し

 「計る...だと...?」


 胸の奥で何かが弾けた。

 泰山は肩を落とすでもなく、鎖を掴み直す。


 「米の在処を聞き出すのは容易でしょう。

  けれど道を定めず手柄だけ携えて戻れば、

  武田の旗はただ重く揺れる。

  ――それでは貴殿を試す意味がない」


 息を呑む音が、灯火の揺れよりも鮮明に響いた。

 俺の掌にはまだ、晴信の碁石の冷えが残っている。

 もしここで在処を吐かせれば、晴信の抱える不信は拭えよう。

 けれど、それは泰山が仄めかす通り、『武田』が恩を量り売りした証にもなる。


 静けさの中で思考が一巡し、やがて一点に収束する。


 「……分かった」

 声に宿った決意に、自分でさえ驚いた。

 「俺は“風”と“兆し”で道を定める。ただし覚えておれ。

  其方の言う()が誰にも渡られることなく、無価値なまま葬られるのであれば、お前の首を討つのはこの手じゃ」


 泰山は微かに頬を緩め、深く頷く。

 「それでこそ、武田の軍師を仰せつかる御方。

  ――その手もまた、覚悟のうちにございます」


 泰山は瞼を伏せる。


 「夜は村の噂に耳を澄まし、

  朝は城下の息遣いを測り、

  北風が背に雪の匂いを運ぶ時――

  兆しは初めて、形を持ちましょう」


 それは、泰山なりの最後の手引きか。

 しかし今の俺には、十分だった。


 俺は泰山へ背を向け、扉へ歩を進める。

 手をかけた刹那、後ろから静かな声が追い掛けた。


 「——晴幸殿。

  風向きが読めぬときは、流れる水を見よ。

  水は、決して嘘をつきませぬ」


 振り返らずに扉を押し開けた。

 冷気と共に吹き込む、わずかな外気。

 水音のない石牢で、確かに感じた。


ーーーーーーーーーーーーーー


 石扉が閉ざされ、鎖のかすかな震えが遠ざかる。

 灯りのない廊下を歩きながら、胸の内で小さく呟く。


 泰山が伝えたかったことは、本当にこれだけだったのだろうか。

 漏れた独白は闇に吸われ、足音だけが石肌を撫でる。やはり泰山が命を懸けて遺す言葉が、ただの比喩と警句で終わるとは思えなかった。


 漆喰壁をなぞる灯りの揺れがひとつ途切れ、曲がり角で夜番の兵が控えていた。


 「山本様、幾分早いお戻りでございますね。」

 「いや、すまぬ。儂が戻っていることは皆には内密にして貰いたい。それよりも、倉番の帳面と、夜廻りの控えを借り受けたいのだが、よろしいか」


 俺は驚く兵に手短に告げ、軍用灯を受け取る。

 夜の噂を拾うなら、蔵と宿と水場。泰山の“水は嘘をつかぬ”が胸を叩く。


ーーーーーーーーーーーーーーー


 月灯りの洩れる土塀を回り、火番小屋に寄せる。

 裏手の水桶がかすかに揺れ、木桶の側面を打つ水音が低く響いていた。

 ――砥石で刃を当てる音。

 夜更けの鍛冶か、それとも密かに刀を研ぐ者がいるのか。


 「この時間、刀を砥ぐのは何者じゃ」

 番小屋の若衆が跳ね起き、あたふたと押し黙る。

 曖昧な返答が返ってくるたび、泰山の影が濃くなる気がした。


ーーーーーーーーーーーーーー


 やがて城下の外れ、小川を跨ぐ古い板橋に立つ。北へ延びる水面は静かだが、月映えの色がいつもより濃い。

 掌を水へ浸すと、山の雪解が混じる冷たさが指先を刺した。

 「北風は背に雪の匂いを運ぶ時――」

 雪解け水は、すでに峠を越えて甲斐へ流れ込み始めている。

 泰山の告げる“刻”は、意外と近いのやもしれない。


 上流側の護岸に僅かな土の溜まりがあり、湿った稲わら片が引っ掛かっている。

 甲州米ではない。粒がやや長く、寒冷地の早稲――

 これは、北信濃の穀倉でしか見ない品種だ。

 夜の囁きよりも、朝の息遣いよりも、

 〈水〉がひと足先に、在処を語り始めた。


 夜明け前まで、俺は水路を灯と共に遡った。

 村の裏手、空き家になったはずの納屋に火の気。

 乾いた馬のいななき、そして俵を担ぐ影。

 泰山が語らなかった“もうひとつの歯車”が、微かに軋む音を立てている。


 ――米は、雪の峠だけを渡ったのではない。

 峠を越えさせ、再び甲斐へと戻す者がいる。


 帳面は、何者かの手で改竄されていた。

 数字のわずかな削り跡。行数の飛び。

 泰山の沈黙は、橋を守るためだけではなく、

 誰かの細工を炙り出す“宵の焚き火”でもあったか。


 灯りの油が尽きはじめ、東雲しののめが空を染める頃。

 俺は水面に映るかすかな朝焼けを睨み、静かに唇を結ぶ。


 「宿へ戻る」


 泰山を討つか、救うか。

 刻限まで、残り二日とわずか。

 俺は駆け足で、若殿の待つ宿へと向かった。


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