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武田の鬼に転生した歴史嫌いの俺は、スキルを駆使し天下を見る  作者: こまめ
第5章 十日間の、災厄 (1547年 3月〜)
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第百八十話 種籾、風向き

 石畳を渡るたび、草履の音が細い弧を描く。

 討手に選ばれた指先は、なお碁石の冷えを覚る。

 問いは澄み切らず、霞のように胸を漂う。


 “真実”に触れれば、晴信の疑念の刃は、俺へも泰山へも向く。

 触れなければ、武田の矜持は稲穂より脆く折れる。


 ならば、どうすればいい?

 

 己の中の異物は、何も語らない。

 きっと俺自身が、どうにかしなければならない。

 扉の前で一度、深く息を潜める。


 石扉の前で、遂に小姓が立ち止まる。

 「山本様、ご用命とあらばお呼びくださいませ」


 俺はほんのわずかに頷き、扉に手を当てる。

 あの男の静かな眼差しが待っている――そんな確信とともに、俺は扉を開いた。


ーーーーーーーーーーーーーーー


 石扉が重い余韻を残して閉まる。

 灯火ひとつ──揺れる炎が、湿り気を帯びた空気を淡く染める。

 そこに佇む男。

 両腕を縄で縛られ、壁を背に預ける男。

 彼は鎖を乱さぬよう膝を正し、静かに俺を迎えた。




 「……ご無沙汰ですな、晴幸殿」




 普段と何ら変わらぬ、いけ好かぬ声。

 返しかけて、喉の奥で言葉が絡む。

 途端に、彼と過ごした四年もの歳月が、脳裏に過る。


 (泰山殿、なぜ、)


 問いは、胸の内で幾度も形を変えては崩れる。

 灯火の下、足枷の鎖を軽く揺らしながら、泰山はゆっくりと問いかける。



 「...“借りた恩”を返す(とき)と、“御身に背負う忠義”が衝突した時、晴幸様、貴方は如何なさる」


 俺は言葉を飲み込む。

 泰山はその沈黙を待ちわびたように、静かに続けた。


 「恩は時を越え、主従を越えまする。

  昔、雪の深い峠で傘を貸してくれた者。

  儂はかつて、その者に命を救われた。

  浪人の頃の話でございます。

  恩は薄れず、ただ雪の下で眠る種のように、時を待ちました」


 「...その者に、米を渡したのか」

 泰山は首を横に振る。


 「私は“雪に覆われた地”へ種籾を託したまでのこと。いずれ春が来れば、誰が刈り取ろうとも恩は芽吹く。

  場所も量も、口にすれば唯の取引となりましょう」


 「だがそれは、武田の米だ」

 「米の名札に家紋はございません。

  畔に立つ者が旗を挙げるか、黙して鍬を入れるか。ただそれだけの違いにございまする」


 灯火が揺れ、壁に映る影が二つに伸びる。

 泰山は影を見遣り、わずかに目を細めた。


 「――種を蒔く手と、刈り取る手は、往々にして別の者。

  蒔いた者が名乗れば、刈り取る者は怠け、

  名乗らねば、刈り取る者は種に感謝する。

  儂は種を持つ手であり、名を持たぬ風であれば良いのじゃ」


 燭芯がぱちりと弾け、壁に映る影法師が微かに震える。


 「...だが風は、吹いた先で誰かの頬を打つ。

  刈り取る者が旗を掲げれば、武田についた仇名(あだな)は消えまい。其方はそれでも構わぬのか」


 泰山はわずかに眉を動かした。

 「旗は目に映えますが、匂いは残りません。

  飯を口にした民は、のちに“誰か”を思い出します。

  名よりも、飯を。

  それが後々の風向きを決めましょう」


 「お前の沈黙を楯にして、儂はどう動けというのだ。水面下の風を読むにも、方位がいる。せめて(はな)だけ示せ」


 泰山は首を横に振った。

 「端を示せば、幅が狭まります。

  狭い道を歩く軍は、転じるたびに兵を落とす。

  貴殿が見るのは土地ではなく“(きざし)”――

  夜の囁きと、朝の息遣いと、峠から吹く北風です」


 夜――村に漂うざわめき。

 朝――城下の気配。

 北風――信濃へ抜ける峠。


 すでに泰山は三つの鍵を匂わせていた。

 それでも場所も量もなお闇の中。

 焦れた息が漏れる。


 「……泰山。なぜそこまでして、語ろうとせぬのだ」


 鎖が小さく鳴る。

 泰山は灯火を見据えたまま、微かに笑った。


 「晴幸殿。

  人の上に立つ者が真に頼れるのは、言葉より秤、

  理屈より間合い、

  そして遠くで揺れる風を読む心にござる。

  儂は、貴方様が我が武田の参謀となった日から、貴方様が領主となったその日から、決めておりました」

 「……何を」


 そこで初めて、泰山は真っすぐ俺を見た。

 瞳の奥に、静かな熱が灯る。



 松尾泰山


 セントウ  一一六四

 セイジ   一九七五

 ザイリョク 四一七二

 チノウ  二一三八



 「この男が、誠に武田の“軍師”に足り得るか、己の命を賭して計ろうと」



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