第百八十話 種籾、風向き
石畳を渡るたび、草履の音が細い弧を描く。
討手に選ばれた指先は、なお碁石の冷えを覚る。
問いは澄み切らず、霞のように胸を漂う。
“真実”に触れれば、晴信の疑念の刃は、俺へも泰山へも向く。
触れなければ、武田の矜持は稲穂より脆く折れる。
ならば、どうすればいい?
己の中の異物は、何も語らない。
きっと俺自身が、どうにかしなければならない。
扉の前で一度、深く息を潜める。
石扉の前で、遂に小姓が立ち止まる。
「山本様、ご用命とあらばお呼びくださいませ」
俺はほんのわずかに頷き、扉に手を当てる。
あの男の静かな眼差しが待っている――そんな確信とともに、俺は扉を開いた。
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石扉が重い余韻を残して閉まる。
灯火ひとつ──揺れる炎が、湿り気を帯びた空気を淡く染める。
そこに佇む男。
両腕を縄で縛られ、壁を背に預ける男。
彼は鎖を乱さぬよう膝を正し、静かに俺を迎えた。
「……ご無沙汰ですな、晴幸殿」
普段と何ら変わらぬ、いけ好かぬ声。
返しかけて、喉の奥で言葉が絡む。
途端に、彼と過ごした四年もの歳月が、脳裏に過る。
(泰山殿、なぜ、)
問いは、胸の内で幾度も形を変えては崩れる。
灯火の下、足枷の鎖を軽く揺らしながら、泰山はゆっくりと問いかける。
「...“借りた恩”を返す期と、“御身に背負う忠義”が衝突した時、晴幸様、貴方は如何なさる」
俺は言葉を飲み込む。
泰山はその沈黙を待ちわびたように、静かに続けた。
「恩は時を越え、主従を越えまする。
昔、雪の深い峠で傘を貸してくれた者。
儂はかつて、その者に命を救われた。
浪人の頃の話でございます。
恩は薄れず、ただ雪の下で眠る種のように、時を待ちました」
「...その者に、米を渡したのか」
泰山は首を横に振る。
「私は“雪に覆われた地”へ種籾を託したまでのこと。いずれ春が来れば、誰が刈り取ろうとも恩は芽吹く。
場所も量も、口にすれば唯の取引となりましょう」
「だがそれは、武田の米だ」
「米の名札に家紋はございません。
畔に立つ者が旗を挙げるか、黙して鍬を入れるか。ただそれだけの違いにございまする」
灯火が揺れ、壁に映る影が二つに伸びる。
泰山は影を見遣り、わずかに目を細めた。
「――種を蒔く手と、刈り取る手は、往々にして別の者。
蒔いた者が名乗れば、刈り取る者は怠け、
名乗らねば、刈り取る者は種に感謝する。
儂は種を持つ手であり、名を持たぬ風であれば良いのじゃ」
燭芯がぱちりと弾け、壁に映る影法師が微かに震える。
「...だが風は、吹いた先で誰かの頬を打つ。
刈り取る者が旗を掲げれば、武田についた仇名は消えまい。其方はそれでも構わぬのか」
泰山はわずかに眉を動かした。
「旗は目に映えますが、匂いは残りません。
飯を口にした民は、のちに“誰か”を思い出します。
名よりも、飯を。
それが後々の風向きを決めましょう」
「お前の沈黙を楯にして、儂はどう動けというのだ。水面下の風を読むにも、方位がいる。せめて端だけ示せ」
泰山は首を横に振った。
「端を示せば、幅が狭まります。
狭い道を歩く軍は、転じるたびに兵を落とす。
貴殿が見るのは土地ではなく“兆”――
夜の囁きと、朝の息遣いと、峠から吹く北風です」
夜――村に漂うざわめき。
朝――城下の気配。
北風――信濃へ抜ける峠。
すでに泰山は三つの鍵を匂わせていた。
それでも場所も量もなお闇の中。
焦れた息が漏れる。
「……泰山。なぜそこまでして、語ろうとせぬのだ」
鎖が小さく鳴る。
泰山は灯火を見据えたまま、微かに笑った。
「晴幸殿。
人の上に立つ者が真に頼れるのは、言葉より秤、
理屈より間合い、
そして遠くで揺れる風を読む心にござる。
儂は、貴方様が我が武田の参謀となった日から、貴方様が領主となったその日から、決めておりました」
「……何を」
そこで初めて、泰山は真っすぐ俺を見た。
瞳の奥に、静かな熱が灯る。
松尾泰山
セントウ 一一六四
セイジ 一九七五
ザイリョク 四一七二
チノウ 二一三八
「この男が、誠に武田の“軍師”に足り得るか、己の命を賭して計ろうと」