第百七十九話 胸中、混濁
一人の男が、城郭の廊下を足早に進む。
厳かな空気が張り詰める中、松尾泰山の行為が城内で騒がれていることは明白である。
やがて備えの小姓が一礼し、控えの間を抜けて晴信の前へと案内される。
障子を開くと、畳敷きの一室に佇む若き当主が、深い眼差しでこちらを見据えていた。
「…戻ってきたか、晴幸」
「はっ」
その声に、背筋を正す。
俺は両拳を地に付き、深く頭を垂れた。
晴信はわずかに頷き、厳格な表情を崩さない。
「晴幸――碁を打たぬか」
思わぬ申し出に一瞬目を見張ったが、俺は直ぐ様頭を下げる。
碁盤が二人の間に据えられ、白黒の碁石が指先で転がる音だけが静寂の空間を満たす。
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最初の布石――
白(晴信)が星から小ゲイマで隅を押さえ、黒(俺)は向かい星に高ガカリ。
「ぱちん」
石が置かれるたびに、室温がひとつ上下するように感じる。
晴信は右辺へ二間高バサミを伸ばし、俺の黒石が切り裂かれかける。
すかさず左上隅へ打ち込み、白の模様を乱す。
小さく洩れる晴信の息。
それきり互いに声を噤み、盤面だけが会話を続けた。
やがて中央に乱戦が生じる。
黒が押し、白がハネ、押しハネの反復で石の鎖が盤面を縫う。厚みと地のせめぎ合いの中で、石音が雨粒のように降り注いだ。
晴信は一手ごとにじっと俺を見つめ、何かを測るような眼差しを向けていた。俺はその視線を感じながらも、迷いを見せぬよう、一手一手を確かに置いていった。
攻防が一段落した頃、晴信が右下隅へ白石を滑らせる。それは俺の外勢を崩しつつ、対話を切り開く鋭い矢だった。
「其方は、あの男を殺すべきだと思うか?」
晴信は口火を切る。
問いと並行し、白は桂馬に飛んで黒三子を分断する。
息が詰まる。まだ真実も見ぬ中、処断すべきかなど判断できるはずもないと、俺は唇を引き結び、慎重に言葉を選ぶ。
「御館様、お願いがございます。一度松尾殿にお目通りを願わせていただきたく存じます。私はあの者を、何も知らぬに等しい」
それを聞き、晴信は息を吐く。
そして、また一手、石を置く。
俺は口を閉ざしたまま、中央で黒の捨石を決め、外周を締める厚みを得た。
沈黙の中、瞼を伏せ、一度口を噤む。
まるで、遥か遠くを見つめているような、
寂しげな口調で、晴信は語り始めるのである。
「……泰山と初めて相見えたのは、儂が未だ幼き頃。父・信虎が健在で、甲斐が飢饉や兵糧不足に苦しんでいた時だ。
あの男は妙な提案をした。密かに米を蓄え、時至れば民へ配分し、信義を得ようと。儂は当時、それをなぜ公にせぬのか不思議でならなかったものだ」
懐かしさの中に、仄かな苦味が入り混じる。
そんな声で、晴信は続ける。
「あの男は、人知れぬまま先を読み、独断で動く癖があった。
かつてはそれを有能と評したこともあったが、今や裏目に出たか、謀反を疑われても仕方のない状況に追いやられたのは、他ならぬ泰山自身である」
右上で白が切断を狙い、黒の封鎖を試みる。俺は左辺へ飛び、白地を荒らして逆襲の布石を置く。
その言葉には、若き当主の胸中にある不安と苛立ちが滲んでいた。しかし、それは一瞬で消え、厳しい眼差しが再び俺へと向けられる。
「三日じゃ。三日後に再審問が控えておる。あの男は、其方は一切関わっておらぬとそう証言しておる。それが真ならば、《何も知らぬ》と申すのならば、見極めてみせよ。あの男の企みが裏切りであるか、他の理によるものかを。そして、あの男が裏切者であることが明らかならば――」
部屋を包む静けさが、胸の内をざわつかせる。
晴信は瞼を伏せたまま、深く息を吐く。
ぱちん
続いて放たれた晴信の一手、それは、己の予想とは反したものであった。
「領主である其方の手で、あの男を討つが良い」
「...へ...?」
白石は、常道外れの“空き手”を右辺へ。
それは泰山討伐の命を示す、盤上の“刃”だった。
その響きは、鋼のように冷ややか。
心臓が大きく脈を打つ。
聞き間違いなどではない。
俺の手で、泰山を討てと、そう命じたか?
その重責は、俺の内心を大きく揺さぶる。
そして思い出す。これは、かつて南部宗秀が辿った運命と似ている。一つ判断を誤れば、取り返しのつかぬ事態となってしまうことは明白だった。
もし、そうなってしまった場合
俺が泰山を殺せなかったら
俺が、その場で死ぬことになる。
煌々と輝く四つ割菱を背に、晴信は睨む。
俺は息を整え、石を手に取る。
俺は拳を固め、深く頭を垂れつつ動揺を隠した。
ぱちん
その一手に、晴信は目を見開く。
「...必ずや、見極めて参ります」
黒が白の切断線を塞ぎ、乱戦を一息に収める手。
盤面の呼吸が一転して静まる。
この黒一石が示すものは
沈黙の中で、晴信は盤面を見下ろし、僅かに目を細めると、ふっと小さく笑みを漏らした。
「やはり、勝てぬな」
晴信はそのまま、障子越しの光へ視線を向ける。
もし泰山が裏切り者だというならば、俺はこの手で彼を葬らねばならない。
考えが堂々巡りし、喉の渇きを誘発させる。俺は背筋を正し、静かにその場を辞する。
廊下へ出ると、足元をかすめる淡い光が、進むべき道を示すかのように揺らめいている。
「山本様、松尾殿は此方でございます」
小姓に促され、俺はゆっくりと歩を進める。
裏切りか、あるいは別の真意か。
晴信の期待と圧力、重責が肩にのしかかる。
あの男に残されているのは、たった三日。
微かな汗が背中を伝い、足音が石畳に鈍く響く中、俺は独り、動揺を胸底に沈めようと必死だった。
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障子が閉まると、晴信は深く息を吐く。
目前の碁盤に目を向け、そのまま天を仰ぐように横たわる。
「儂を試しておるのか、泰山」
その声には、戸惑いが滲む。
松尾泰山に対する不信と共に、かつて彼を信じた己自身への苦い後悔が込められているようだった。
傍らに控える近習が何かを伝えようとするが、晴信は手を軽く振って制する。
「晴幸」
その名を口にした瞬間、晴信は拳をゆっくりと緩めた。声は次第に低く、しかしどこか切実な響きを帯びていく。
「其方は儂を裏切ることはしないはずだ。
儂の側に居てくれるはずだ。
そうだろう?晴幸……」
室内には静寂が戻る。だがその静けさは、晴信の胸中で渦巻く葛藤や孤独を一層際立たせるものだった。
遠く障子越しに射し込む光を見つめ、晴信は再び目を閉じる。胸中を巡るのは、甲斐の行く末と、自分が導くべき未来の重責。
声にならぬ思いを抱え、晴信は厳しくも、どこか寂しげな目を向けるのだった。