第百七十六話 民心、揺らぎて
初春の陽光が田畑を柔らかく照らす頃。俺達は村へ辿り着いた。
道中、村人たちは鍬を置き、俺の馬が近づくと一斉に頭を下げる。その挨拶は深く、崇敬の念が滲んでいた。
「領主様、よくお戻りに……!」
「お帰りなさいませ、領主様!」
老人も、青年も、皆が口々にそう呼びかける。彼らには何も知らされていない筈だが、表情にはどこか不安の色が混じっているように思えた。
俺は静かに笑みを返し、一人ひとりに頷く。そうすることで、僅かでも安堵を与えられればいい。若殿は黙して側に控え、村人たちの視線を気遣うように振る舞っている。
やがて、俺達は松尾泰山の屋敷へと辿り着く。かつては整然と手入れされた庭木があり、清廉な雰囲気を醸していたその邸は、今は見る影もなかった。門が歪み、庭先の植木が踏みにじられ、建具は無残に破られている。中を覗けば、米俵の麻袋が裂かれ、巻物や家具が散乱していた。
「これは……賊の仕業か?」
思わず呟き、隣にいた弥兵衛が視線を伏せる。
「どうやら…村の者たちが、松尾殿を『謀反人』だと噂し、その怒りで屋敷を荒らしていたようでございます……」
村の者の仕業だと?
確かに、泰山が蓄えた米や種籾が表に出ず、密かに行われてきた行為は誤解を招きやすいことは分かる。しかし、それだけで彼を罵倒し、その留守を狙って暴挙に及ぶとは……。
「……そうか。」
俺は苦い息を吐く。民衆は不安と怒りに駆られ、支え手を叩く。正体不明の『謀反』が飢えや戦乱の引き金になると恐れているのだろう。泰山が築いた信頼が、こうも脆く崩れてしまうとは。
俺は松尾泰山を全面的に信じているわけではない。何らかの意図があって行動し、それが武田家と村の者たちを守るための策であれば、と願うばかりだ。しかし、それはあくまで推測に過ぎないことも分かっている。
屋敷に続く小径へ辿り着くと、俺は若殿の方を振り返る。
「若殿、儂はこれから城内へ向かい、直接御館様やその周囲から事の内情を探る。故に其方は屋敷へ戻り、身を休めていてくれ」
俺がそう伝えると、若殿は唇を引き結ぶが、やがて微笑み小さく頷いた。
「……分かりました、晴幸殿。どうかお気をつけて」
彼女は静かに小径へと消える。俺はその背中を見つめながら、馬の手綱を握り直した。
泰山の屋敷が荒らされるとは、想像以上に民心は揺らいでいる。かつての繁栄と秩序が、脆く歪む音が聞こえるようだった。
「弥兵衛、先に倉番の元へ向かうと申していたな。そちらは頼んだぞ」
「はっ」
俺が静かに告げると、弥兵衛は神妙な面持ちで応える。
彼もまた、この混乱をただ受け入れるだけでは終われぬと覚悟しているのだろう。
俺は弥兵衛の背中を見送った後、馬の腹を軽く蹴った。
荒れた屋敷から離れるにつれ、人々の生活音が徐々に戻ってくる。鍬を振るう音、物売りの呼び声、子どもの笑い声。だが、そのどれもがどこか浮き足立ったように聞こえてしまう。
俺は村を抜け、武田家の城下へ続く道を選ぶ。路傍の木々が春風に揺れ、淡い緑が視界を和らげる。だが、心は重い。この先城内へ入れば、晴信の決断、泰山の思惑、その片鱗に触れられるはずだというのに。
思考を巡らせるうち、見慣れた山並みの先に城郭が現れ始める。堅牢な石垣の下、白壁が青空に溶け込み、旗印が高らかに揺らめいている。
兵士たちが行き交う門前には、行商人や使者らしき者がちらほらと集まっている。近づくと、ざわめきが一瞬静かになり、その視線が俺へと集まる。
馬を進め、城門前の広場へ出る。ここから先は徒歩の方がいいだろう。俺は馬を預け、城内への通行を求めるべく、城門へと歩を進める。
その時、不意に視界の奥に人影が揺れた。
頭巾を深く被った男が、石垣脇からこちらへ歩を進めている。飾り気のない衣に、土埃をまとい、静かにこちらを向く。周囲の喧騒から浮いているその姿に、俺は自然と足を止めた。
あれは
妙に胸騒ぎがする。男の沈黙は、まるで俺の出方を試しているようだった。俺が一歩近づくと、彼はわずかに身体を傾け、微動だにせぬまま、その覆い隠された顔をこちらへ向ける。
頭巾の下から漏れる視線が、俺を貫くようだった。
その正体に、周囲の音が消える。
「……作兵衛」
低く、押し殺した声で名を呟くと、男の姿が微かに揺らめくように感じられた。風が、彼の頭巾の端をそっと持ち上げる。
城郭を背に、俺は相対する。
目に光を失い、表情は虚ろ。
そこに、俺の知っている《作兵衛》はいなかった。
絶望