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武田の鬼に転生した歴史嫌いの俺は、スキルを駆使し天下を見る  作者: こまめ
第5章 十日間の、災厄 (1547年 3月〜)
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第百七十五話 甲斐、出立

 翌朝、薄明かりが差し込み始めた頃。

 俺達は早々に支度を整えていた。

 庵原殿の館はまだしんと静まり返っている。鶏の声すら遠く、町屋のざわめきも目覚めていないこの時間に出立することを、彼は快く了承してくれていた。


 あの日も、同じような光景だった。

 初めて送り出してくれた、あの日も。


 門前に馬を用意し、出立の間際。

 俺は共に甲斐へ向かうことを選んだ若殿の姿を認める。若殿は事情を承知の上で、迷いなく同行を申し出てくれた。その姿に、俺は胸の奥に微かな痛みを覚える。


 「すまぬ、若殿。

  儂の都合に付き合わせてしまったな……」


 俺が頭を下げると、若殿は微かに首を振り、穏やかな笑みを浮かべた。


 「謝らないでください。私はかつて、晴幸殿をお支えすると決意いたしました。その思いは今でも変わりませぬ」

 柔らかな声とともに、その瞳には確固たる意志が宿っている。

 俺はその言葉に救われる思いだった。


 「……ありがとう、若殿」



 弥兵衛は既に門前で佇み、その様子を見ている。

 その姿勢はまるで、張りつめた弓弦の様だった。


 「弥兵衛、行くぞ」

 「はっ!」


 馬に鞍を置く音が、静かに朝の冷気を揺らす。

 庵原殿からは温かな茶菓と乾燥させた果実を、道中の糧として頂いた。最後に門前で深々と頭を下げ、後ろ髪を引かれる思いで館を後にする。若殿は俺のすぐ脇に馬を進め、弥兵衛がその後ろにつく。三人が肩を並べ、甲斐へと向かう。


 道すがら、空は徐々に淡い青へと移ろい、冷たい風が頬を打つ。草木は朝露に濡れ、馬の蹄がぬかるむ土を踏む音だけが静かに響いていた。

 「弥兵衛。甲斐へ戻り次第、まずは松尾殿の所在と、奴を取り囲む状況を確かめたい。下手に動くと我らまで疑いを受けかねない。慎重に立ち回るぞ」

 「…承知致しました、晴幸様」


 泰山は武田家の台所を支える、いわば要といえる存在である。昨日晴幸と話した通り、もし晴信が本気で粛清するならば、既に事は動いているだろうが、今はまだ謀反の嫌疑という噂止まりである。実行は先延ばされており、晴信も決断を迷っているに違いない。


 偽った収穫量、それを隠し持つ米。

 それらが危機に備える戦略物資ならば、

 背信ではなく、忠義の裏返しではなかったか?


 だが、晴信に正直に意図を告げぬ理由が掴めない。

 忠義者が主君を欺く必要などあるのか?

 外敵から武田を守るための独断か、それとも他の何か…いや、自身がそう思いたがっているだけなのか。

 考えるうち、頭痛が鈍く疼く。


 弥兵衛は黙っているが、その横顔は強張っている。

 そんな弥兵衛に対し、俺はゆっくりと諭すのである。


 「弥兵衛、疑いを鵜呑みにするでないぞ。

  我らが為すべきは真実を確かめること。

  擁護に走ってもならぬ。

  松尾殿自身の言葉を聞き、その上で判断しよう」


 その言葉に、弥兵衛は僅かに肩の力を抜く。

 「はい、晴幸様。承知しております。

  松尾殿は必ず、何かお考えあってのことだと…そう信じたいのです」


 若殿は黙って俺たちの言葉を聞いているが、その沈黙には不安と覚悟、そして俺を支え続けるという決意が宿っていると感じられた。彼女がここにいることが、得体の知れぬ暗闇に差し込む一条の光であることを、今更ながらに思い知る。


 それから二日の時が経つ。

 日は少しずつ昇り、白んだ空が青く澄み始める。

 人影まばらな街道を馬で進み、遠くに甲斐の山並みが見える。

 庵原殿から頂いた果実の包みが懐で揺れ、戻るべき地があることを思い出させてくれる。


 やがて小さな集落が近づき、人々が畑仕事に出る姿がちらほらと見え始めた。

 甲斐への道筋は間もなく要所に達し、そこから武田家領内に入る。


 「弥兵衛、城下に入る前に一つ頼みたい。

  お前が以前、松尾殿の使いで訪れた穀倉の倉番がいただろう。あの者に話を聞いてまいれ。

  もし隠された米があったのなら、倉番や村役人が動きを見ているはずだ」


 「は。確かに、百姓衆の頭領が倉番を兼ねておりますな。正直者で、泰山様にも信を置かれている方です。何か手がかりが得られるやもしれません」


 穀倉の在処、収穫量偽装の現場、その意図。

 全ては甲斐の地に答えがあるはずだ。

 大丈夫、問題ない。

 奴の真意を探るための《策》が、俺にはある。


 若殿は俺を見つめ、静かに頷く。その微かな仕草に、俺は決意を固める。

 泰山が秘めたる思惑を明らかにし、晴信と泰山の狭間に揺れるこの不穏を断ち切るために。


 爽やかな朝風が頬を掠め、遠くで小鳥が囀る。

 三人の馬蹄が淡々と大地を刻み、甲斐の地へと踏み出す。その背には、若殿の決意と支えが、確かに感じられた。

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