第十七話 晴幸、出陣
来る六月二十八日、
早朝のことである。
「此れで、宜しゅうございますぞ」
「忝うござる」
晴信に与えられた鎧を纏った俺は、
ゆっくりと身体を動かしてみる。
重い。金縛りに似た感覚。
よくこんなものを着て戦えるものだ。
「鎧を御身に纏われるのは、慣れておられぬようですな」
「ああ、なにぶん久方ぶりのこと故な」
俺は男を見つめ、目を細める。
男は微笑み、仕上げにと俺の腰に二本の刀を差す。
平穏な日々を送っていた俺には、持ち歩けど無縁だった刀。
それを使う時が、じきに来るのかもしれない。
部屋を後にする前に、俺は振り向き様に問う。
「では、行って参る」
「領主様、御武運を」
出立の機に集った領民の中に混じる、松尾泰山の姿。
俺は彼の傍に歩み寄り、ぐっと肩を掴んだ。
「儂の居らぬ間、領地を頼んだぞ」
「勿論。この松尾泰山、しかと役目を果たして見せましょうぞ」
その言葉を聞き、俺は息を吐く。
皆が身を案じる素振りを見せる中で唯一人、彼だけは終始笑みを浮かべていた。
俺は泰山を横目に領地を抜け、数名の男達を率い城へ向かう。
道中、俺には心なしか、皆の表情が固く見えていた。
「り、領主様は、怖くは無いのでしょうな」
「何がだ?」
「わ、私共は何分、戦など初めての事でございますので……」
「案ずるな、儂も戦などしたことがない」
男達は呆然とする。
中には初めて出会った頃と同じ、怪奇な目を向けている者もいた。
その雰囲気を悟った俺は立ち止まり、彼等の方を向いた。
「領主が怖がっていては、其方等に顔が立たんからな」
そう言って、笑ってみせる。
俺だって、怖い。この鎧の重さに、潰されてしまいそうな感覚を覚えている。
「殿は、「儂を守るために死ね」と、其方等に申されるやもしれぬ。
だが、其方等は逃げよ。これは儂からの命令じゃ。
咎めは儂が貰い受けよう」
「領主様……!」
「良いか。皆生きて帰るぞ、必ず」
強かな笑みを見せ、俺は再び歩み出す。
これで良い。格好付けるのは好きではないが、その御陰で皆の表情が一変した。
覚悟を決めた表情。
数名の男達は、ただ一点を目指し、歩み続ける。
その日は珍しく、雲一つ無い晴れた日であった。
城門へ向かう俺を待ち受けるのは、屯する男達の様子。
皆、己の中に煮え滾るものを抑えられないかの如く、
闘志を露わにしているのである。
現に、彼らの目は〈殺意に似た何か〉で満ちていた。
この時、俺は少しばかり混乱していた。
昨日まで当たり前だと思って居た者達の豹変ぶりを、此の目で見てしまったからである。
気がおかしくなりそうだ、そう思った俺は隅に離れようとする。
「待て、其処の者」
声の方を振り返ると、一人の男が立っていた。
「御初に御目にかかるな、
其方、山本晴幸殿と見る。
儂は南部宗秀と申す」
男は俺に微笑みかける。
何事も寛容に受け入れる様な、そんな笑みを。
何故だろうか、妙に腹が立つ。
俺が捻くれているだけかも知れないが、そういう人間は所謂〈偽善者〉に見えてしまう。
こんな時、俺は決まって拳を握り、気持ちを抑えるのである。
「……何の用じゃ」
不愛想な態を装い、俺は問う。
「別に大した用は無い、
此処で其方に、歓迎の意を述べたいと思うたのじゃ」
すると、南部は俺の肩に手を置き、耳元で囁く。
「ただ、勘違いはするな。
儂は、其方が気に入らんのだ」
俺は目を見開く。
南部は、俺を睨みつけていた。
「其方は殿に好かれておる様じゃが、
あまり調子に乗るでない」
南部はそのまま手を離し、集団の許へ向かう。
俺は息を吐く。
まあ、そうだろうな。
牢人風情に知行二百貫など、嫌われない方が珍しい。
普通の者には、一生かけても手に入らぬ程の価値だ。
朝日が我らを照らす。
昼の時間が最長となる〈夏至〉は過ぎてしまったが、
やはりこの時期は、陽の昇りが早い。
「殿の御成りにござる!皆控えよ!」
突然発せられた声に、俺の背筋が伸びる。
目の前には、若くして総大将となった武田晴信が、
黒の鎧を纏い立っている。
「皆の者、此れより我らは信濃へ侵攻!
基い、諏訪家征伐へ向かう!心してかかれ!!」
男達の鬨の声が木霊する。
其のあまりの大きさに、地響きを感じる。
主君の放った一言に、此処まで感情を露わにする。
これこそが戦前の雰囲気なのだと、俺は唾を飲んだ。
其れから甲斐を発った俺達は一日かけ、山道を移動する。
その末に辿り着いた御射山に、俺達は陣を敷いた。
四つ割菱の旗が靡く。
俺は深く息を吸った。
長閑な場所だ。
甘利の発言通り、此処は森に囲まれ、閑散としている。
「伏兵を昨晩から諏訪方に張らせております。
じきに忍びが、居場所を伝える為に此処へ馳せ参ずる手筈」
様々な言葉と憶測が飛び交う陣中で、晴信は一度咳払いをする。
「我らが此処に陣を敷いた事、敵は気付いておらぬ様だ。
敵の位置が知れれば、後は此方のものじゃ」
晴信の顔は、自信に満ち溢れていた。
どうやら、迷いも全て吹っ切れたようだ。
俺は微かに笑みを浮かべる。
しかし、晴信の見せる笑みも束の間。
陽が沈み、其の報告が俺達の許に飛び込んでくるまでは。
「殿、殿っ!!」
一人の男が突如、陣に駆け込む。
彼は恐ろしい形相で、此方を見つめている。
晴信が何事だと訊ねると、男は震える声で言った。
「も……申し上げます!
諏訪勢の姿が見えませぬ!!」
「何っ!?」
俺達は目を丸くした。
当の晴信も、眉に皺を寄せる。
「そんな筈は無い!
昨晩から見張りを付けておったのではないのか!?」
「確かにございます!
諏訪殿の旗差し、此の目でしかと確認いたしました!!
故に伏兵をそれらの背後に回らせて居りましたが、
朝には跡形も無く、姿を消しておりました!」
「もしや……我らの動きが知られた?」
「いや、お待ちくだされ」
板垣の一言に、俺は口を挟みつつ、顎に手を当てる。
どうやらいきなり、最悪の事態に遭遇してしまった様だ。
諏訪勢に動きが知られてしまったのは間違いない。
然し、問題は其処では無い。
我等が考えるべき問題は、《何故我々の存在を知られたのか》ということだ。
「其処の者、兵を諏訪の背後に回したと申したな。
其れは敵に視えぬ処か」
「は、六町ほど離れた地にございます。
暗闇で息を潜めていた我らに気付く事は困難かと」
ならば、恐らく要因は一つ。
「間者か」
俺は声のする方を振り返る。
晴信が俺を睨んでいる。
そうだ、晴信の言う通りだ。
恐らく俺達の中に、諏訪家が仕掛けた〈裏切り者〉が紛れ込んでいる。
そいつが諏訪に、我らの侵攻の旨を伝えたのだ。
「間者……だと?」
「一体誰が、そんな」
其の時、一人の男が立ち上がった。
全員の目が、彼に向く。
其の男は
今朝俺に話しかけた、南部宗秀であった。
〈裏切り者〉は、誰だ。