第百七十四話 理性と、威厳
弥兵衛の話を聞き、俺は一人部屋に戻る。
灯りを落とした室内は、まるで床板の軋む音すら響くような静けさである。
俺は頬杖を突き、窓辺に寄りかかる。
目の前に広がる景色をぼんやりと眺めていると、心が少しばかり軽くなる気がした。
空は漆黒に染まり、遠くに見える桜は微かに月明かりに照らされている。
風が吹き抜ける度、冷たい空気が室内に忍び込む。
俺は肩をすくめた。春の訪れを感じながらも、未だ肌寒い夜だ。
「悩みが尽きぬのう、テンセイシャよ」
ふと聞こえた声の正体を悟り、俺は溜息をついた。
「…面白がっておるのか?晴幸、御前にとっても他人事ではなかろう」
「左様。この地を治める我が立場が揺らぐともなれば、決して笑い事ではない。
あの男も、なかなかのことをしてくれるわ」
こいつはやはり、この状況を面白がっているようだ。
解決の糸口が見つかる気配はなさそうだと感じつつも、俺は期待を捨てきれずに訊ねる。
「御前は松尾殿についてどう考えている」
「当然、捨てるべきであろう…と言いたいところであるが、そうもいかぬことはお主も重々承知であろうよ」
俺は口を噤む。
確かに松尾泰山の事を信用しているわけではない。ただ、あの男を《敵に回すべきではない》ことだけは明白だった。
「松尾泰山は御主の思う以上に、武田家にとって重要な存在である。今でさえ武器や兵糧を揃えるために、あの男が武田家に軍資金を融資する有様じゃ。今や、武田は近隣諸国に名が知れ渡るほどの大国となりつつある。それを一人で支えるともなれば、もう分かるであろう。万が一、あの男が敵に回ることがあれば、武田にとって大きな脅威になるはずだ。故にあの男が晴信を欺くつもりがあると発覚すれば、晴信がとるべき行動は御役を解くことでも、どこかに匿うことでもない。『その場で殺す』ことであろうな。
...いや、それだけでは済まぬ。あやつが殺された暁には、領主である我らにも、相応の罰が与えられるであろうよ」
それを聞き、俺は唾を飲む。
当然だ。このような事態に発展してしまったのは、領主として松尾泰山を管理できていなかったことにもある。
「…やはり、晴信が奴を殺せるとは思えぬ。
軍資が絶たれるのであれば、御家として他国と戦うことができなくなるだろう。
それに、あの男は古くから武田と縁があるのだぞ」
「ああ、御主の申す通りだ。
仮に殺すのであらば、直ぐさま実行しているはずだ。
恐らく晴信も、『理性』と『威厳』の狭間で揺らいでおるのであろうな」
理性と威厳――。
晴幸の言葉は正しかった。晴信はきっと、泰山を殺すことへの抵抗と、武田の威厳を守るための決断の間で葛藤しているのだろう。
人の心を選ぶか、世の無情さを選ぶか。
どちらを選ぶにせよ、晴信自身の心も、武田家そのものも深く傷つく結果になってしまう。それだけは避けられない。
俺は再び桜の木を見つめた。
風に揺れる花びらは、どこか儚げで――
どこか、今の俺の心情に似ている気がしたのだった。
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「…そうか。明日甲斐へ戻るか」
その後、俺は明日明朝に出立する旨を庵原殿に伝える。
忠胤の低く穏やかな声が、静まり返った部屋に響く。その声には、どこか寂しさが混じる。
「はい...折角の折に、申し訳ありません」
俺は深々と頭を下げ、慎重に言葉を選ぶ。
自分の決断が忠胤にとっても、若殿にとっても少なからず負担を与えることは分かっている。
それでもなお、俺はあの場所に戻らねばならなかった。
「謝るな。それが其方の為すべきことならば、致し方ないことだ」
忠胤は考え込むように視線を遠くに向けた後、ゆっくりと言葉を続けた。
俺はその言葉に、胸の奥が熱くなるのを感じる。
忠胤の寛大さに触れるたび、自身の未熟さと、それでも認められているという安堵が交錯し、何とも説明がつけられぬ感情が押し寄せる。
「儂のことは気にするな。また必ず会える。其方の故郷は此処にあるのだ。何時でも戻ってきてくれ」
笑みを浮かべ語る庵原殿。その言葉は、力強くも柔らかい。「故郷」というその一言が、俺の胸に染み渡る。
晴幸は目を伏せ、深く息をつきながら、その温かな言葉を胸に刻む。
俺が抱えていた迷いや不安は、庵原殿の一言一言で少しずつ溶けていくかのようだった。
「若殿を、宜しく頼むぞ」
やがて庵原殿は、低く静かな声でそう告げた。その言葉には、深い思いと信頼が込められていた。
山本晴幸という男が背負うものの重さを感じながら、それでも必ずや若殿を守り抜いてくれる。庵原殿には、そんな確信があったのだろう。
思わず目頭が熱くなり、涙ぐむ。それを庵原殿に見せぬよう、視線を伏せたまま一礼する。その姿を見て、忠胤もまたわずかに表情を緩め、深く頷く。
必ずまた戻ってくる。
その時には、己の務めを果たした姿を
見せられるように。
忠胤の存在は、俺にとって当に帰るべき場所であり、心の支えだった。
この瞬間、俺の中で《感謝》と《決意》が一層強く結びついていく様を感じたのだった。
次回、再び甲斐へ