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武田の鬼に転生した歴史嫌いの俺は、スキルを駆使し天下を見る  作者: こまめ
第5章 十日間の、災厄 (1547年 3月〜)
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第百七十四話 理性と、威厳

 弥兵衛の話を聞き、俺は一人部屋に戻る。

 灯りを落とした室内は、まるで床板の軋む音すら響くような静けさである。

 俺は頬杖を突き、窓辺に寄りかかる。

 目の前に広がる景色をぼんやりと眺めていると、心が少しばかり軽くなる気がした。


 空は漆黒に染まり、遠くに見える桜は微かに月明かりに照らされている。

 風が吹き抜ける度、冷たい空気が室内に忍び込む。

 俺は肩をすくめた。春の訪れを感じながらも、未だ肌寒い夜だ。


 「悩みが尽きぬのう、テンセイシャよ」


 ふと聞こえた声の正体を悟り、俺は溜息をついた。

 「…面白がっておるのか?晴幸、御前にとっても他人事ではなかろう」

 「左様。この地を治める我が立場が揺らぐともなれば、決して笑い事ではない。

  あの男も、なかなかのことをしてくれるわ」

 こいつはやはり、この状況を面白がっているようだ。

 解決の糸口が見つかる気配はなさそうだと感じつつも、俺は期待を捨てきれずに訊ねる。



「御前は松尾殿についてどう考えている」

「当然、捨てるべきであろう…と言いたいところであるが、そうもいかぬことはお主も重々承知であろうよ」

 俺は口を噤む。

 確かに松尾泰山の事を信用しているわけではない。ただ、あの男を《敵に回すべきではない》ことだけは明白だった。


 「松尾泰山は御主の思う以上に、武田家にとって重要な存在である。今でさえ武器や兵糧を揃えるために、あの男が武田家に軍資金を融資する有様じゃ。今や、武田は近隣諸国に名が知れ渡るほどの大国となりつつある。それを一人で支えるともなれば、もう分かるであろう。万が一、あの男が敵に回ることがあれば、武田にとって大きな脅威になるはずだ。故にあの男が晴信を欺くつもりがあると発覚すれば、晴信がとるべき行動は御役を解くことでも、どこかに匿うことでもない。『その場で殺す』ことであろうな。

 ...いや、それだけでは済まぬ。あやつが殺された暁には、領主である我らにも、相応の罰が与えられるであろうよ」


 それを聞き、俺は唾を飲む。

 当然だ。このような事態に発展してしまったのは、領主として松尾泰山を管理できていなかったことにもある。

 

「…やはり、晴信が奴を殺せるとは思えぬ。

 軍資が絶たれるのであれば、御家として他国と戦うことができなくなるだろう。

 それに、あの男は古くから武田と縁があるのだぞ」

「ああ、御主の申す通りだ。

 仮に殺すのであらば、直ぐさま実行しているはずだ。

 恐らく晴信も、『理性』と『威厳』の狭間で揺らいでおるのであろうな」


 理性と威厳――。

 晴幸の言葉は正しかった。晴信はきっと、泰山を殺すことへの抵抗と、武田の威厳を守るための決断の間で葛藤しているのだろう。

 人の心を選ぶか、世の無情さを選ぶか。

 どちらを選ぶにせよ、晴信自身の心も、武田家そのものも深く傷つく結果になってしまう。それだけは避けられない。


 俺は再び桜の木を見つめた。

 風に揺れる花びらは、どこか儚げで――

 どこか、今の俺の心情に似ている気がしたのだった。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「…そうか。明日甲斐へ戻るか」

 その後、俺は明日明朝に出立する旨を庵原殿に伝える。

 忠胤の低く穏やかな声が、静まり返った部屋に響く。その声には、どこか寂しさが混じる。


 「はい...折角の折に、申し訳ありません」


 俺は深々と頭を下げ、慎重に言葉を選ぶ。

 自分の決断が忠胤にとっても、若殿にとっても少なからず負担を与えることは分かっている。

 それでもなお、俺はあの場所に戻らねばならなかった。


 「謝るな。それが其方の為すべきことならば、致し方ないことだ」

 忠胤は考え込むように視線を遠くに向けた後、ゆっくりと言葉を続けた。


 俺はその言葉に、胸の奥が熱くなるのを感じる。

 忠胤の寛大さに触れるたび、自身の未熟さと、それでも認められているという安堵が交錯し、何とも説明がつけられぬ感情が押し寄せる。


 「儂のことは気にするな。また必ず会える。其方の故郷は此処にあるのだ。何時でも戻ってきてくれ」


 笑みを浮かべ語る庵原殿。その言葉は、力強くも柔らかい。「故郷」というその一言が、俺の胸に染み渡る。


 晴幸は目を伏せ、深く息をつきながら、その温かな言葉を胸に刻む。

 俺が抱えていた迷いや不安は、庵原殿の一言一言で少しずつ溶けていくかのようだった。


 「若殿を、宜しく頼むぞ」

 やがて庵原殿は、低く静かな声でそう告げた。その言葉には、深い思いと信頼が込められていた。

 山本晴幸という男が背負うものの重さを感じながら、それでも必ずや若殿を守り抜いてくれる。庵原殿には、そんな確信があったのだろう。


 思わず目頭が熱くなり、涙ぐむ。それを庵原殿に見せぬよう、視線を伏せたまま一礼する。その姿を見て、忠胤もまたわずかに表情を緩め、深く頷く。



 必ずまた戻ってくる。

 その時には、己の務めを果たした姿を

 見せられるように。



 忠胤の存在は、俺にとって当に帰るべき場所であり、心の支えだった。

 この瞬間、俺の中で《感謝》と《決意》が一層強く結びついていく様を感じたのだった。

次回、再び甲斐へ

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