第百七十二話 忠義心と、疑心
空は穏やかな夕焼けに染まる。斜陽が差し、目の眩みを覚える。
妙な居心地の良さを感じながら、晴信は御料人の膝に頭を乗せ横たわっていた。
そんな晴信に対し、御料人は身を委ねるように目を閉じる。
「あの者のことは、幼い頃よりよく知っていたはずだった」
声の震えに気付き、御料人は晴信の額に手を置いた。
「松尾殿は、殿の御父上様から関わりがあると、以前お話して頂きましたね」
「松尾泰山は唯の金貸しなどではない。今の武田がこれほど大きくなったのは、あの者の功労といっても過言ではないのだ。だからこそ、儂はあの者を失いたくはない」
「それが、殿の御意思なのですね」
晴信は静かに応じた。失いたくはない一方で、一国の主であるからこそ、威厳を保たなければならない。故に葛藤しているのだとばかり思い込んでいた。しかし、その言葉の裏には疑念が渦巻く。
松尾泰山という男は守るべき人間だ、それは分かり切っている。
だが実際はどうか。心の隅に生まれる小さな影に、晴信は気づく。
その忠誠心の裏に、何かがあるのではないか。
この出来事を皮切りに、武田に大きな歪を生む可能性もある。
それほどまでに、松尾泰山という男の影響力は強い。
もし、あの男が晴幸と結託することがあれば、どうする?
そうなれば、答えは一つしかない。
「…あの男は、ここで殺すべきなのやもしれぬ…」
沈黙が訪れ、穏やかな夕焼けが更に深まる中、御料人は静かに問いかけた。
「殿。もし松尾殿の首を挙げることが御家にとって正しいことだとしても、手を下すのは決して容易なことではありません。その覚悟はおありですか?」
晴信は目を開け、重々しい声で答えた。
「心の準備など、できるはずもない。しかし、一国の主として武田を守るためには避けられぬこともある」
「御心の痛みは私も理解しております。どうか、慎重に行動されますよう」
「…ああ、忝い」
御料人は深く頷き、晴信の手をそっと握る。
晴信の言葉はそこで途切れた。
松尾泰山との対峙が避けられないものであるならば、その時こそ覚悟を決めなければならない。
夕闇が忍び寄る中、晴信の決意は固まりつつあった。
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泰山から投げられた問い。その一言が、作兵衛の心に深く突き刺さった。故に喉の渇きを覚えた。
晴幸は一才関与していないと、泰山は述べていたはずである。その問いに隠れた真意を、作兵衛は探ろうとする。
「山本殿は、かつての我が友とよく似ておるのだ」
泰山は静かに語り始める。その声には懐かしさが滲んでいた。
「我が友もまた忠義を尽くし、主のために命を懸けた男であった。だが奴は時折、その忠義の裏にある葛藤を見せることがあった。武田家の繁栄と忠義の狭間で揺れ動く様を、儂は幾度と目にしたものだ」
その言葉が、作兵衛の心に重く圧し掛かる。
「山本殿もまた、かつての友と同じように…」
その言葉を耳にし、作兵衛は内心の動揺を抑えきれなかった。
「お止めくだされっ!晴幸様に限って…そのようなことをする筈がありませぬっ!
あの御方は誠心誠意、御家のために尽力しているのです!それは貴方様も御分りでしょう!?」
作兵衛は苛立ちを隠せず、泰山に向かって叱責する。泰山は予想通りの反応であると微笑む。
「其方の気持ちはよく分かる。しかし、真実とは常に闇に紛れているものだ。儂が申したいのは、山本殿が忠義を尽くすか、はたまた裏切り者と成り果てるかどうかは、山本殿のみぞ知るという事だけである」
作兵衛はしばし無言でその場に立ち尽くしていた。泰山の穏やかな語り口とは裏腹に、その言葉には重みと迫力があった。しかし、作兵衛は心の中で晴幸への忠誠心を再確認し、反論の言葉を絞り出す決意を固めた。
「晴幸様が裏切ることなど、断じて有り得ませぬ。あの御方の行動を見れば分かる筈です。
貴方様に何の利があってこのようなことをしたのか、私には判りかねまする。
ただ、これだけは分かります。貴方様は、何もわかっていない」
そう言い残し、作兵衛は足早にその場を去る。
地に置かれた瓢箪に目を移し、泰山はふと目を細めた。
「尊い、実に尊いな。作兵衛殿、其方の忠誠心というものは」
そう呟き、泰山は上を見上げる。
確かに、儂は何もわかっておらぬのやもしれない。
しかし、儂はただ警鐘を鳴らしているだけだ。
忠義は美しいものであるが、その美しさが時として曇ることもあるのだと。
次回、晴幸のターン