第百七十一話 囚われ、馳せる者
日暮れ。薄暗い地下牢に囚われた男の影。
壁を背に天を仰ぐ男、その目は暗闇に似つかわぬ優しさを秘めている。
それはまるで、遠き日に思いを馳せているかのような面持ちであった。
その日、松尾泰山は証言した。
収穫量の改竄については紛れもなく、自身が引き起こした出来事であると。
収穫量の管理は泰山が担っており、かの一件に晴幸は関与しておらず、晴幸自身も認識していなかったこと。
これらは全て己の仕業であり、自身の責任の上での行動であったことを説明する。
「全て真の証言であるならば、かの動機と余った米の在処を申せ」
「幾ら御館様の所望であろうと、申し上げることはできませぬ」
「貴様っ!言わねばその首、ここで撥ねてしまうぞ!!」
逆上する家臣団の姿を横目に、泰山は嗤うのである。
こやつらは、まるで何もわかっていない。
無理もないと、呆れたような表情で、泰山は呟いた。
「其方らは真に、我が行為を悪意や怨みによるものだとお考えか?
言わずとも、貴方様ならばお判りの筈ですぞ。御館様」
目を見開いた晴信は、泰山の言葉を脳裏で反芻する。
瞬時に気付いてしまった。それは、己でなければ分からぬことの裏返しなのだと。
暫くし、《以後の追求が意味を成さない》ことを悟った晴信は立ち上がった。
「…この男を牢に閉じ込めておけ。処遇は後日決める。覚悟しておくのだな」
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「貴方様はやはり、賢い御方であらせられるな」
そう呟き、泰山は瓢箪の水を口にする。
晴信があの場で動機を公言できなかった理由も、泰山には分かっていた。
当に日付は超えただろうか。灯火一つでは、何も分からぬまま。
眠気を誘うはずの火の揺らめきも、今では何も感じなくなってしまった。
揺らぐ火を見つめながら、泰山は目を細める。
乾いた足音。
誰かが、来る。
誰にも悟られぬかのような足取りで、何者かが近づいていることを察した。
暗闇から現れるその姿に、泰山は思わず驚嘆する。
「作兵衛…」
晴幸の代わりに村を任されていたはずの男が、目の前で鋭い眼差しを向けている。
作兵衛は頭巾を取り、その場に屈み込んだ。
「何故この様な場所にいる、見つかれば御主も只では済まされぬぞ」
「重役方に許しを得ておる故、問題ございませぬ」
泰山は視線を逸らす。作兵衛の背後に潜む影の存在を察し、息を吐いた。
作兵衛は真剣な眼差しを向け続ける。その様子に応えるように、泰山はくっと顎を引いた。
「とある御方より伺いました。貴方様は収穫量の改竄を行った。それは紛れもない事実であり、領主である晴幸様は一切関わっていない。そう証言されたと」
「ああ、そうじゃ。それが如何した?」
「私が訊ねたいのはただ一つです。貴方様の行動は、御家の為か、己自身の為か。此処でお聞かせ頂きたい」
「何故そう思う」
「貴方様が何の利も無しに、そのようなことをする訳がありませぬ。松尾泰山という金貸しは、そのようなお方でありましょう?」
作兵衛の言葉に、笑う泰山。
その様子に、一切表情を変えず見つめる作兵衛。
この男の胸の内に秘めたる言葉を、引き出すための一手。
核心を突かれた泰山は、この手に乗ってやらぬこともないと、笑い疲れたかのように俯く。
「ああ、そうだ。その通りだ」
作兵衛は硬直する。
これまでになかった、一段と低い声。
周囲に纏わりつく雰囲気が、徐々に色を変えてゆく。
明るい印象の泰山からは想像もつかない、今まで見せたことのなかった表情を向ける。
まるで人格が入れ替わったかのような変化に、作兵衛は息を呑んだ。
「ならば、私からも問おう。
山本晴幸、あの男が晴信を裏切ると申せば、お主はどうする」
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そのやり取りを、陰で見つめていたものが一人。
作兵衛を案内した飯富虎昌は、静かに目を閉じる。
松尾泰山の言葉が真であるならば、これは晴信にとっても苦渋の決断であった筈だと。
虎昌が思い返すのは、晴信と泰山が過ごしたはずの、日々の記憶。
泰山が語る、その真意とは