第百七十話 汚れた、決意
駿河を訪れて3日が経つ。俺は若殿に連れられ、市へと出向く。
あの頃のように、色取り取りの店を見回しては笑顔を見せる若殿。俺はその後方を歩む。
此方へ伸びる影に、届きそうで届かない、そんな距離を保ち続ける。
周囲の視線。以前は気にも留めなかったが、今は違う。
俺は改めて、菅笠の端をぐっと下げる。
俺が武田の者であり、このような場所にいることを知られるわけにはいかない。
幾ら暇を頂いていようと、常に気を張るべきだと己に言い聞かせた。
「晴幸殿!」
若殿の声に我を取り戻す。気付けば、若殿がこちらを振り返っている。
思わず険しい顔をしていたようで、俺は少しだけ頬を緩ませた。
「私、あの時の櫛を、まだ使っているんです」
「櫛、でござるか」
若殿が懐から取り出したのは、駿河を発つ前に若殿にプレゼントした小さな櫛。
四年もの月日が経った割には、綺麗に手入れしてあるように思えた。
「新たに欲しいとは思わぬのか」
「はい。晴幸殿から頂いたものですので、大切に使いたいのです」
「……そうか」
「如何しましたか?」
「いや、誰かに贈り物をして、これほどまでに喜ばれたのは初めてでな。嬉しいのだ」
「私も、嬉しいです」
あれから実に4年もの月日が経っているとは、どうしても思えない。
すっかり変わってしまった街並みの中で、時が止まってしまったような錯覚を覚える。
《万物が2人を取り残して、先に進んでしまったのかもしれない。》
そう思い込んでしまうほど、あの頃と変わらない影法師が並ぶ。
「若殿。儂と此処を訪れたのは、何か訳があるのだろう。」
「…ふふ」
春の陽気が、眠気を誘う。
いたずらに微笑む若殿の横顔に、俺は目を細めた。
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若殿に手を引かれながら、俺は人気のない橋の前へ辿り着いた。
「此処は」
「晴幸殿。貴方が此処で仰ったこと、覚えていらっしゃいますか」
若殿は橋の中央で立ち止まる。俺はくっと顎を引く。
忘れるわけがなかった。己の中の止まっていた時間が、動き出した場所。
ここから、全てが始まったのだから。
「今、晴幸様の目には、この日本はどの様に御映りですか?」
思いがけない言葉に、思考が止まる。
俺にとって、若殿が発した言葉は至極予想外だった。
陽を背に立つ若殿は、俺を見下ろす。
心なしか、以前よりも背が伸びたように感じた。
俺は気づく。彼女が、あの時の答えを待ち詫びていたということに。
春風が鼻をくすぐり、俺は遂に息を吸った。
「…この世は、思っていたほど美しいものではなかった。
まるで醜き獣のように争い続け、弱き者を喰らい続ける。
きっとそうだ。己自身も、汚れてしまった。
そうでなければ、ここまで生きることはできなかった」
途切れ途切れの口調で、声を絞り出す。
若殿は決して、目を逸らそうとはしなかったというのに。
橙色に照らされた世界が、コントラストを増してゆく。
俺にはこの世界の眩しさを見つめることなど、出来るはずがなかった。
「儂の様にはなるな、若殿」
「晴幸殿は、決して汚れてなどおりませぬ」
俯いた俺にかけられた声に、目を見開いた。
「晴幸殿は変わってしまいました。
私達には到底、届かぬ処へと行ってしまわれた。
それでも、晴幸殿は私の傍にいてくれたのです。
どれほど揶揄されたとしても、決して折れることのない強さと優しさを持つ晴幸様を。
眼差しはいつも強く、澄んだ目を持つ晴幸様は、ここにいます」
「若殿...」
言葉が出なかった。
正確には、それ以上の言葉を口に出せなかった。
何かを得る度に、何かを失わなければならないこと。今までの自分から、変わらなければならないこと。
それはいつ何時も変わることがない、この世界の摂理だと思っていた。
しかし、何も失ってなどいない。
あの頃から何も変わってはいないのだと、この子はそう言っているのだ。
もう一度、この眩しい世界に踏み出すこと。
多くの犠牲を生み、見殺しにしてきた己にも、そんな権利があるのだろうか。
少なくとも、若殿はそんな俺に手を差し伸べてくれていた。
「私は、晴幸殿の仰る日本とやらを、天下とやらを、この目で見てみとうございます」
自信に満ち溢れた様な表情に、俺は力が抜ける。
そして、小さく呼吸をする。
俺は静かに、〈あの時〉と同じ決意の目を向けた。
「若殿。」
もう、良いか。
寧ろ遅すぎたくらいだ。
そして、俺は強く拳を握った。
「どうか、この儂と」
その時、後方から俺の名を呼ぶ声がした。
振り返ると、何者かが此方に向かって走っている。
「晴幸殿、やっと見つけました......っ!」
「弥兵衛…!?お主、何故此処にいる」
息を切らし、青ざめた表情を抜ける弥兵衛の表情に、俺は眉を顰める。
「まっ......松尾殿がっ......!」
「......は?」
その知らせを耳に、俺は声を失った。