第百六十九話 事実と、真実
「甘利殿、暫し良いか」
明くる日、板垣は甘利虎泰の元へと足を運ぶ。
突然の来訪に驚きつつも毅然とした面持ちを見せた。
春に似つかぬ日差しが、肌を焼く。
板垣の目に映るのは、庭に詰まれた小石。訊ねようとし、思い留まる。
「……少し痩せたな」
「そうか?」
甘利はうすら笑みを浮かべる。
その表情に潜む、彼なりの念を悟る板垣。
かつての盟友の姿が、脳裏に過った。
「この茶葉は、〈あの男〉から送られてきた代物だ」
「......左様か。丁度良い、その茶葉で茶を点てようではないか」
微かに空いた返答の間に悟る。
あえて名を出さなかった、その訳は至極明解である。
甘利にとって、それが良い知らせでないことは分かり切っていたのだ。
芳醇な茶葉の香りが鼻を擽る頃、甘利は遂に口を開く。
「此度の件、泰山殿は貧しき民に分け与える為に米を蓄えていたというが……甘利、其方は真実だと思うか」
「さて、どうだろうか。胡散臭くは感じるが、少なからず虚偽を申し伝えた事は由々しき行為であろう。あの者には正当な罰を与えねばならぬであろうな」
「ならば事の一切、晴幸殿に伝えるべきだと思うか。否、そもそも晴幸は関わっているのか。甘利、其方の意を聞かせてもらいたい」
淡々とした口調ではあったが、未だ喉に引っかかる言葉を、板垣は逃さなかった。
板垣の言葉にほくそ笑む甘利は、茶を差し出す。
「やけに慎重であるな。何か知られてはならぬことでもあるのか?」
板垣は眉を顰める。甘利はその様子を悟り、視線を逸らした。
陽を背にした板垣、見つめる2つの陰。
目を細める甘利は、ゆっくりと語り始めた。
「晴幸殿も関わっておるという事実、その真偽が分からぬ限りどうにもならぬことは分かる。どちらにせよ、少なからず領主として責任を取らせる必要はあるだろう。そのようなことは板垣殿、其方にも分かり切っておるはずだ」
板垣はその言葉に息を吐き、並々と注がれた茶に視線を落とす。
やはり甘利は鋭い。そうだ、そんなことは分かっている。
これも全て、自分自身に言い聞かせるためだ。
(全ては御館様の裁量だとしても、信頼を置く家臣を罰するのは心苦しい筈じゃ)
だからこそ、悟られるわけにはいかなかった。
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《板垣様。一つ、私の口からお伝えしておきましょう》
松尾泰山。あの時、奴が不意に口にした言葉。
あの男の言葉が真実であるとすれば、
山本晴幸、其方は〈只では済まされない〉だろう。
それは板垣にとって、晴信にとって、
武田家を揺るがす、そんな事態になり得るかもしれない。
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「……其方の言葉で確信した。やはり晴幸殿を此処へ呼び戻すのが良さそうだ。明日こちらから手配しよう」
そう言い残し、茶を飲み干した板垣は屋敷を後にする。
がらんどうになった部屋に、甘利は目を閉じた。
「……どこから聞いていた」
そう呟いた途端、庭の隅から現れる人影。
陽が傾き始める最中、その陰は笑みを浮かべながら、甘利を見つめていた。
各々の思惑が交錯する