第百六十八話 二人の、晴幸
お久しぶりです。こまめです。
昨年から学校関係が色々忙しいこともあり、1年ぶりの更新となってしまいました(´;ω;`)
その晩のこと。灯篭の灯が照らす部屋で、俺はその日に起きた出来事を事細かく記す。
部屋に染み付く匂い。それは只の匂いではなく、嗅覚を通じて九年の歳月を俺に語り掛けてくる。
記憶を蘇らせながら、俺の手は遂に動きを止めた。
『名残もゆかしく』
綴った文字を見つめ、立ち上がった俺は側の襖を開く。夜風を浴び、深く息を吸う。
(やはり、落ち着かないものだな。)
こうしている間に、背後から襲われてしまうのではなかろうか。
何も案じる必要はないはずなのに、そんなことを考えてしまう。
不意に洩れる溜息。
たった四年。されど、その四年間が俺の全てを変えてしまったのだ。
「哀れな話じゃ。しかしこれも、武士としての定めであろう」
部屋の隅に腰掛ける人影。赤く光る目を持つ男はそう述べる。
山本晴幸としてではなく、俺自身も成り果ててしまったというか。
俺は静かにその対象を見つめた。
「御主にとって、儂の姿は如何様に写っておる」
問われ、晴幸は静かに外の景観を眺める。
「其方は己を思うほど強かではないと卑下している様だ。しかし、儂にはこの世の理に沿い、先の世を見据え抗い続けておる様に見える。以前の其方からは、その面影すら感じることは出来なんだ。
以前とは変わった。変わってしまった......否、変わらざるを得なかったと言うべきか。それは其方が相対するべき運命を、其方自身が受け入れたか否かの違いであろう」
俺は晴幸を見つめ続ける。『変わらざるを得なかった』。その言葉の意図は、彼の発言によって鮮明となる。
(御前がそう言うのならば、そうなのだろう)
思い返せば、おかしな問いである。対する彼の言葉は、至極真当であると感じた。決して切ることのできない関係であるからこそ、その言葉の重みが俺の中にのしかかる。
「......以前の如く、御身を滅ぼそうとは思わぬ。儂は決して死なぬ、この老いぼれを案じてくれる者がいるのじゃ」
かつて自ら命を絶とうとしたことを思い出し、苦笑する。遂に俺の方を向く晴幸の目は、以前鋭いままである。暫くの沈黙を切り裂くように、晴幸は立ち上がった。歩み寄り、恐ろしい形相で睨みつける。
その眼光は、まさに己を貫かんとするほどの鋭敏さを帯びる。しかし、俺は顔色一つ変えることはなかった。
「勝手に死んでもらっては困る」
その発言の意図に気付けたのは、彼が己自身であるという紛れもない事実によるものである。赤く光る目の奥に眠る『何か』を、俺は知っている。
変わらぬ背丈、瓜二つの姿をしている。唯一違うのは、二人の山本晴幸、その根底にあるものの形だろう。同じようで全く違う。それは逆に、ないものを互いを補い合えるという利点にもなりうる。故に我々は感じ合っているのだ。己自身の中の、『もう一人の己』を。
晴幸は、遂に口者を緩ませた。
「良い覚悟だ」
そう呟いた途端、ゆっくりとその原型をなくしてゆく。
一人になった俺は、灯籠の灯に目を移す。
奴には、俺の思考は全て筒抜けだったな。
俺は再び硯に向かい、筆を取る。
『名残もゆかしく、幸ひなる日々をめぐらす』
いずれ訪れるその時。俺は、皆はどんな顔をするだろうか。
今は、そんなことを案じる必要はない。
生きている、その事実を噛み締める。
今は、今だけは、それでいいのだから。
庵原殿から受け取った御守り。忘れぬようそっと懐に忍ばせ、俺は灯籠の灯を吹き消した。