第百六十七話 仏門、加護
「これは……」
「覚えておいでですか、庵原殿」
「ああ、ああ!忘れるはずがなかろう」
差し出した手の中にある小さな巾着袋。駿河を出立する前々日に、拵えてくれた御守りである。
それは四年の月日を経て、汚れ切ってしまっていた。
「長旅や戦の折、常々身に付けておりました。私が無事に生きながらえているのは、庵原殿の御加護だと申しても過言ではありませぬ」
「そうか……其方が稀に見る出世者だというのは、風の噂で聞いておった。故にこのような老いぼれのことなど、すっかり忘れてしまったものだとばかり思うておったわ……」
「とんでもない、見ず知らずの浪人を拾ってくださった恩を忘れるとは愚者の所業。いつ感謝を申し上げるべきか、日々考えておりました」
大層なことではない、と庵原殿は巾着袋を手に目線を落とす。
庵原殿の口から漸く出た言葉に、俺はどうにもむず痒い心地がした。
俺は自信を以て彼の言葉を否定できる。この代物に如何程の思いが込められているのか、俺には分かってしまうのだから。
「中は見ておらぬのか」
「……はい」
庵原殿は何も言わず、縮れた紐を再び結び直す。再び手渡された巾着袋には、仄かな温かさが残っていた。
「其方に一つ、目にしてもらいたきものが在る」
立ち上がった庵原殿は、背後に見える襖から重箱を取り出す。蓋を開けると、一枚の掛軸が収められていた。
「儂の古き友であった住職に描かせた仏の絵じゃ。すっかり薄汚れてしまったがな。
「何故、これを私に」
「仏門の力は凄まじい。それ故に、其方にも御加護があればと思うての」
墨で描かれた繊細なまでの作りに、俺の目は釘付けになる。
優しげな微笑みに芽生える安心感。俺の心は静まりつつも、揺らぎ始めていた。
どうして目に見えぬ幻に、心を許してしまうのだろうか。
俺は今でさえ、神や仏などという存在を信じてはいない。それでも次々に芽生える感情は、『山本晴幸』という人間である故の産物か?
そう考えつつ、思い出す。それは以前から幾度と耳にしてきた言葉であった。
『人は、何かに縋り付きたくなる生き物である』
俺が幾度となく死線を抜けられたのは何故なのか。その問いの理由を探り、どう意味付けるかは俺の自由。ならば、神仏の見えぬ力に護られたと考えるのも、一つの意味付けとして成り立つだろう。
人が何かに縋る様は、いつの時代でも変わらない。対象が違っているだけで、人は無意識のうちに何かに縋り付こうとする。きっとこの時代に辿り着いた俺に対しても、同じことがいえるのだろう。
俺は表情を緩ませる。ただ揺らぐ心をひた隠すような、そんな笑みを見せる。
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【躑躅ヶ崎館】
引きずられるかの如く、泰山は軍議場へ連れられる。そこには数名の家臣と若き城主の姿があった。
「其方が何故此処に連れられたか、存じておるであろう」
「御館様、この老いぼれに対し、少々扱いが荒いのではございまするか?」
「おい、親方様に向かって何だその不成口は!」
「良い、この男には無礼講じゃ。其方の仕業でなければな」
晴信は泰山を睨む。対し、泰山は以前俯き具合にも笑みを浮かべている。晴信は臣下を呼び立て、とある書物を泰山に向け差し出す。
「其方の村が納める米の量と、此処に記されたものが異なっておるのは自明である。村の民から米を集め引き渡すのは其方の役目だと聞いておるが、其方は儂等に虚偽の申告をしたということか」
「私は確かに晴幸様より、収穫した村の米を定められた分集めよと仰せ仕っておりました。しかし、虚偽の申告を行ったというのは、少々語弊がございまするぞ」
「御主の屋敷に備える蔵より、数俵の米が見つかったことは此方の耳にも入っておるのだぞ」
泰山はぴくりと反応する。彼の胸の内に現れた変化を見逃さなかった晴信は、彼に思考の時間を与えまいと言葉を連ね続けた。
「もはや其方たちの中で済む話ではない、村全域に関わる事態にまで発展しておる。事の次第では晴幸も罰則対象になりかねん。泰山、其方が偽りを申していたとあらば誠のことを申せ。さすれば其方だけの話で済むのじゃ」
暫くの沈黙。考えた末に絞り出した言葉に、晴信は眉を顰める。
「やはり、貴方様には敵いませぬな……承知いたしました。山本様を巻き込むのはまかりならぬ由、御館様の御所望とあらば、この口から誠のことを御話しましょう」
そう呟く泰山は、かつて見せたことのない鋭い眼差しを、晴信に向けていた。