第百六十六話 幸福、感謝
【駿河・庵原忠胤の屋敷】
「丁度良い。先日、友の頼まれ事のため近場に出たついでに、茶葉を仕入れておいたのじゃ」
春の陽気に暖かさが肌を通じて伝わってゆく。少しばかり待ってほしいと、そう声をかけた庵原殿は俺達の前に腰を下ろしたまま茶を点てる。
俺と若殿がその様子を眺めていると、次第に《香り》が庵原殿の辺りを漂い始める。
嗅覚を通じ、駿河での微かな記憶が鮮明さを帯びていく。この独特な《爽やかさ》を帯びた茶葉の香りは、この近辺でしか味わうことができない代物であった。
そうだった。この茶が格別だと思えるのは、香りとは別の、もっと別の理由があったのだ。
俺が庵原殿の許へ転がり込んだ日の夜、俺に差し出してくれたものが、この茶葉で入れた茶である。
爽やかな香りとは相反した、口に含んだ瞬間に漂う香ばしさと苦みには驚かされた。これほど美味い茶は生涯飲んだことがないと、本心からそう思ってしまったほどである。
(人の五感が、これほどまで正確に記憶と結び付くものだとは。)
我ながら感心してしまう。駿河で過ごした九年の歳月は、記憶を対価として過ぎ去った筈だった。それをものの見事に、取り戻すことができたのである。
「この辺りはすっかり賑わっているようですね」
「ああ、春に転じる頃だ。自ずと足も増えてくる」
目前に置かれた湯呑に目を移すと、澄んだ緑色が生えている。俺は少しばかりの眠気を覚えながら、その茶を一口含む。
「晴幸殿、態々駿河へ足を運ぶとあらば、それなりに暇を頂いたのであろう」
「はい。殿より傷を癒せとの仰せもあり十日ほど暇を頂いたため、うち七日ほどは駿河に留まるつもりでございます」
「そうかそうか、ならば儂の許で泊まっていかれよ。宿を借りようにも甲斐から訪れたとあらば、騒ぎになろうとおかしゅうはなかろう」
「……実を申せば、端からそのつもりでございました。迷惑であれば別に宿を探しまするが……」
「ははは!迷惑などとんでもない、むしろ歓迎しよう!其方のことじゃ、訊かずとも既に考えがあって此処を訊ねたのだな」
高笑う庵原殿に、俺は小さく微笑む。
身体中の力が抜け、気づかれぬほど小さな息をつく。
懐かしさという感情を身を以て知る瞬間、日々緊迫した日常が一変する、その不可思議な感覚を思い出した。
あの頃と何ら変わらない庵原殿が、そこに居たのだ。
「若殿よ、其方らは相も変わらず仲良うやっておる様だが、いっそ契りを交わして仕舞えば良いのではないか?」
「ち、契りなど、そもそも私と晴幸殿では身分が違うございます故……」
「何を言う、晴幸殿がそのようなことを気にする男ではないことを、其方も存じておるであろう」
若殿と庵原殿、二人の会話に耳を立てる俺。
居心地の良さに、俺は茶に微かに映る己の表情を見ては、それを口元に向け一気に流し込んだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
向かいの宿へ向かった若殿を見送り、俺と庵原殿は語り合う。今の生活や、甲斐にて起こったいくつかの出来事を語ると、庵原殿は終始真剣な眼差しを浮かべながら、耳を傾けていた。
「……ここ数年で、駿河もまた変わってしまいましたな」
そう訊ねると、庵原殿は思案に耽るかの如く腕を組む。その後すぐに俺に向けて発された一言は、庵原殿が俺に対して最も尋ねておきたかったことだったという。
「晴幸殿、武田の御殿様は如何だ?一国の主人としてふさわしい御方か?」
彼にとって重要だとされていたはずの問いに対して、俺は考える素振りすら見せなかった。それは言わずもがな、既に答えが決まっていたからである。
「武田晴信様は、若くして周囲より達観し、戦法、政に長けておられます。まさしく、名大将という名に恥じぬ御方にございます」
安堵の表情を見せる庵原殿も、薄々は勘付いていたはずだ。駿河国を治める今川義元は、度々の戦において晴信へ援軍を差し出している。晴信が並外れた才を持つことを義元が評価していることは想像に難くない。
「そうか、そうか。その様な御方の許で働けるとあらば、さぞ幸せなことであろう。其方も一昔前は虫をも殺せぬ目をしていたものだが、徐々に武士らしくなってきたようだな。ははは」
庵原殿の何気ない言葉に、俺の表情は一変した。
「勘違いなさいますな。私は己の境遇を幸せだと思うたことは一度たりともありませぬ。人が死ぬのも、殺すことも好きではない」
予想に反した回答に、驚く表情を見せる庵原殿。
対し、俺は再び笑みを零した。
「......此度、庵原殿の許を訪れたのは、庵原殿に感謝を申し上げる為でもあるのです」
「儂に、か?」
微かに緊迫した空気感に、再び姿勢を正す庵原殿。俺は懐からあるものを取り出し、庵原殿へ向けて差し出した。