第百六十五話 誤算、影
その頃、武田家支城となる躑躅ヶ崎館では、家中に細やかな動揺が走っていた。
晴信が認知している今年の米・山菜の収穫量に比べ、実際の収穫量がどうにも少ないという。それも多少の誤差ではなく、至上類を見ないほどの大きな違いである。
晴信は考え得る理由を板垣に問うため、各地に臣下を派遣。集められた結果を基に、板垣と原虎胤が中心に事態を引き起こした要因について探る。その間におよそ三日しか与えられなかったが、板垣はそれを難なくやってのけた。
「失礼致します、板垣信方にございます」
「入れ」
板垣は目前に座を構える主君の様子に唾を飲む。深刻さを悟る表情に、板垣は晴信自身も何かしらの意見を持ち合わせているという事実に勘づく。ここまで晴信を悩ませる理由は、当に分かり切っていた。
静かに腰を下ろす板垣。それを間近にした晴信は板垣に視線を向けた。
「失礼ながら、一つお聞きしても宜しゅうございますか」
「なんじゃ」
「此度の出来事、殿はどう御考えで?」
「口火を切ろうとせぬのは、それほどの訳があるということか」
板垣はそれ以上、何も語ろうとはしなかった。
そうであってほしいという晴信の願望に似た予測よりも深刻な理由が、板垣の脳裏に隠されていることを悟り、晴信は目を閉じる。
「これは我々の誤算ではなく、何者かが《裏で手を引いている》故の産物、いわば領内に住む何者かの仕業であろう」
「……」
「板垣、もう良い。有体に申すが良い。儂は何も思わぬぞ」
そう言うと、板垣は覚悟を決めたように顔を上げる。そして、懐から数枚の和紙を取り出す。そこには領内に住む者其々の屋号と漢数字が事細かく綴られていた。
「これらは、臣下達が直々に領内を回り得た記録にございます。この中の《とある村の記録》が、此度の誤算の大部分を担っていると判明いたしました」
「やはりか、その村は誰が治めておる」
「はっ、それが……」
板垣は再び、躊躇うような仕草を見せる。
其れを振り払うかのように、板垣は前方に睨みを利かせるのだった。
「山本晴幸の、村であると……」
「……なんだと?」
当の晴信も、その名には驚きを隠せなかった。それもそのはずである。彼にとって、その名は最も予期できなかったものだといえるだろう。
「し、しかし、収穫量を管理しておるのは山本晴幸ではなく、松尾泰山という金貸しのようです」
瞬時に変化した空気間を悟り、板垣はそう付け加えた。
「……そうか、板垣。晴幸には今しがた十日ほどの暇を出しておる。しかしながら、真偽ははっきりとせねばなるまい。松尾泰山を、此処へ連れてまいれ」
「は……はっ!」
板垣が即座に席を外す。薄雲の合間に刺す青、姿を現す光に視線を逸らす。
その時、只ならぬ悪寒を覚える。
今の心象とは相反した天候に、晴信は心に靄が生まれるのを感じた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
そこは、とある大屋敷の一端。
縁側に座り、茶を啜る一人の老人の背後に忍び寄る影。
気付きづつも、彼は微動だにしない。
「主が松尾泰山か、殿のお呼びじゃ。其方にも心当たりがあるだろう。
我らと主に、御同行願おうか」
「……殿のお呼びとあらば、致し方ありませぬな」
松尾泰山は振り返ることなく、笑い様に呟く。
途端に背後から肩を捕まれ、泰山は数人の男達に取り囲まれた。
「ぐずぐずするな!来い!!」
その時、泰山の手にしていた湯呑が落ち、割れる。
破片は音を立て、茶は水溜りを成す。
その様子を、誰も気に止めることはない。
ものの一分足らずの出来事である。
音が消えた屋敷には、そよ風が吹き抜ける。
それはそれは、心地よい春の日のことであった。