第十六話 晴信、苦悩す
「......何故そう思った?」
その瞬間のこと。
晴信の表情が変わる。
図星かと、俺は目を逸らした。
「殿の策は、完璧だと言わんばかりの、
手の込んだものにございました。
殿は、諏訪殿の焦りに御気付きの筈。
しかし、何故それほどまでに慎重であられるのか。
初めは、諏訪家の力を知っておられるからだと、思い込んでおりました。
しかし、晴信様が時折、我等に隠す様に苦渋の顔を浮かべておられた事に気付き、
もしや、諏訪頼重殿に情を移しているのではないかと」
晴信は苦笑する。
武庫内の空気の程良き冷たさが、己が身に深く染みてゆく。
「武田と諏訪は、先代から紡いできた仲じゃ
儂は極力、この様な事をしたくは無い。
然し、頼重殿は我等を裏切った。
ならば、盟約を破棄してでも攻め立てる、
それこそが、当然の報いだと」
彼の言葉を耳にしながら、俺は少しばかり後悔した。
我ながら、意地が悪いものだな。
また、晴信に選択を迫ってしまったのだから。
「……左様、当主となった今、儂は其れを壊そうとしておる。
このままでは、父上が作り上げたものを、
一つ残らず、粉々にして仕舞うだろう。
晴幸、教えてくれ。
儂のしておる事は、正しいのか?」
俺は再び、晴信に目を向ける。
あぁ、やはりこの若造も、所詮は一人の人間だったか。
戦国を代表する人物であっても、この様に苦悩を抱えているのだ。
ならばそれに気付き、寄り添うのも、家臣の役目ではないか。
俺はふと、若殿の姿を脳裏に浮かべる。
悩み、苦しんだ日々の中で、
彼女だけは、いつだろうと俺の傍に居てくれたことを思い出す。
歴史を知らない俺にとって、家臣のあるべき姿など分かりはしない。
しかし、一人の人間として彼を見れば、するべきことは明白だ。
俺は頰を緩ませる。
全く、面倒なものだな。家臣というのも、殿様というのも
「晴信様、己自身でなされた御決断に、正しいも間違いも有りませぬ、
正しいと思い進む道こそが、正しき道にございます」
都合の良い言い分だと、晴信は微笑む。
今の俺には、それが精一杯の返答であった。
「其方には、此れからも世話になるな」
晴信はそう言い残し、武庫を出る。
諏訪頼重と武田晴信。彼らの関係は恐らく良好であった。
そうでなければ、彼が此処まで苦悩する事も無かっただろう。
この時代に来て、友という友すらもいなかった俺には、理解し難い感情であったが。
とにかく今は、晴信の決断に付いてゆく事こそが、我らに与えられた役目。
一人取り残された俺は、鎧を木箱に仕舞い、立ち上がった。
降雨の六月。蛙の鳴き声が、屋敷の中にまで響く季節。
晴信の許へ、とある一報が入る。
「高遠殿、金刺殿が、此方に寝返るとの事!」
それを耳にした晴信は、勢い良く立ち上がった。
彼の目に、迷いは無い。
「戦じゃ、皆に支度させよ」
寝返りの一報が俺の許に入ったのは、直ぐ後の事。
雨の降りしきる中、俺は外を眺めていた。
妙に落ち着かない。
その理由は、ただ一つである。
じきに戦が始まる。
俺の、武田家としての初陣が迫っているのだと、
心の何処かで、勘付いていたからだ。
次回、出陣