第百六十四話 いざ、駿河へ
【一五四七年 三月十一日】
「さて、参りましょうか!」
「うむ、そうだな」
声のする方へと、俺の足はゆっくりと歩み出す。
宿を出て見上げれば、雲の隙間から差す陽が無数の光の筋を生んでいる様が広がっている。
傍には一羽の鳥が、光に照らされながら羽搏く。
俺は荷を持たない左手を顔の前に翳し、その様を眺めていた。
俺と若殿は、昨日の夜明けに甲斐を発った。怪しまれぬよう互いに古びた召し物を纏い、出稼ぎの商人夫婦を演じながら。
一刻ごとに休みを取り、遠回りながらも安全な道を選び進み続ける。出立までに簡易的な地図と地理学の知識を用い、ルートを調べつくしていたおかげで、夕刻までには国境を超えることに成功した。
二日間、ただ歩き続けるという長旅になったが、若殿は一向に疲れを見せることはなかった。寧ろ精神的にも肉体的にも疲労困憊な俺を励ましてくれていた。
この時代に生きる人間は、徒歩で国境を超えることなど当たり前だったのだろう。当然だ、この時代には自動車など一切存在しないのだから。
「ふう、疲れたのお」
「……御前は何もしておらぬであろうが」
「何を言う、儂と其方は一心同体だと申したであろう。
其方が疲れれば儂も疲れ、其方が傷を負えば儂も痛みを感じる。
其方が負った負荷は、儂にもかかっておるのだぞ」
後方に立つもう一人の自分、《本物の山本晴幸》は赤い目で俺を見つめている。
霧の残る山中、早まる鼓動を感じながらも前方を見つめると、若殿は地図を片手に前方を歩み続けている。
「気を抜くでないぞ。一見何もない地にも、野党が潜んでおるやもしれん。共々襲われるやもしれぬことを肝に銘じよ」
雑念を取り払うかのように、晴幸は俺に語りかける。仮にそうなったとしても、いざとなれば晴幸がこの身を用いて助けてくれるだろう。晴幸の思惑とは裏腹に、俺はさほど案じてはいなかった。
「晴幸殿、こうして二人で旅に出るのは初めてですね」
「ん?ああ、そうだな」
目線を上げれば、若殿が此方を振り返っている。
気づけば、晴幸は姿を眩ませていた。
簡素な反応に、若殿は前方で微笑みつつ、少しばかり俯く。
春風が、二人の間をすり抜ける。
(言われてみれば二人で領内を回ることは多々あったが、国を出ることはこれまで一度もなかったな)
「楽しいか?」
「はい、とても楽しゅうございます」
その一言に、俺の表情は漸く和らぐ。
俺と若殿、二人の影は少しずつ伸び続けていた。
「……このまま、二人で何処か遠くへ行ってしまえたら……」
「へ?」
「あ……いえ!それよりも見えてきましたよ、晴幸殿!」
表情が、変わった。
若殿は何か思い立ったかの如く駆け出す。
その様子に違和感を覚えた俺は、彼女の背を追う。
「お、おいっ、若殿!」
強く、速く呼吸する度に、冷たい空気が胸を傷ませる。
暫くして、若殿は遂に立ち止まる。
弾む息遣いに、若殿が呆然とした表情で見つめる方向にある情景。
汗を拭う俺は、じっと目を凝らす。
遠くに、小さな町並みが見えた。
俺は荒い呼吸のまま、ぐっと歯を食いしばる。
彼女が放った一言によって、俺は笑顔の中にある小さな棘の存在に気づいてしまった。
彼女の願いを《履き違えてしまった》という、疑いようのない事実に。
普段から愚痴など溢さぬ彼女に背負わせてしまった《苦痛》が、己の想像を遥かに超えていたことに。
それでも、俺は気づかぬふりをする。
寂しい思いをさせてしまった分、今は彼女との時間を大切にしたい。
だが彼女の言うそれはきっと、今為すべきことではない。
晴信によって、全ての御役が解かれた時。
それまで生き続けることができたなら、きっとその時が彼女の言葉に応える時であろう。
駿河にいた頃とは、まるで変わってしまった。
心まで鬼に支配されてしまった己自身を、俺は心底恨んだ。
「懐かしい、塩の匂いがします」
「若殿……」
「何も言わないで下さい……我儘など言いません。我慢も、女子の務めなのでしょう?
今は、今だけは、晴幸殿と共にいられる時を大切にするつもりです」
若殿は遂に振り返る。
吹っ切れたような笑みを浮かべる若殿に、俺は目を細めた。
この子は強いな。俺より一周りも若いというのに、俺なんかよりも、ずっと。
俺は心に小さな痛みを覚えながらも、小さく頬を緩めるのだった。
【駿河国】
賑わった市街に出向くと、懐古の情が芽生える。
見覚えのある、だけどどこか違った世界。
若殿もまた人々の波をかき分けながら、辺りを見回している。
声が出なかった。四年前にここを去る時には、こんなに発展していなかったはずだ。
「美しい切子だ」
「素敵です」
二人は食い入るように見つめる。
機械で作ったような繊細さ。
長年培ったであろう職人の技術に、内心驚いていた。
二人は俯きがちに微笑む。
楽しい。この時間が、永遠に続けばいいと思う。
何気なかったはずの時間こそが、何事にも代え難いものなのだと感じる。
それもきっと、この時代に飛ばされたことによって、知ることができたのだ。
「若殿」
俺が彼女に声をかけたその時。
二人の後方を通り過ぎた男。
ふと懐かしい雰囲気を纏った男に、俺は目を奪われた。
「庵原殿……!」
俺は立ち上がり、声をかけた。
男は二人を凝視したまま、硬直する。
「はるゆき、どの?」
其処には、白髪を生やした庵原忠胤の姿があった。
「お……おおお!晴幸殿と若殿ではないか!久方ぶりだな!!何故此処におられる!?」
「晴信様から暇を頂いたので、その期に参りました。庵原殿にも一度挨拶をせねばと」
「左様か、左様か!遠いところ、よく参られたな。さあさ二人ともうちに来るといい。菓子を出そう」
二人は歩み出した庵原殿の後を付いてゆく。
その途端、俺は背筋に寒気を感じ、振り返った。
「晴幸殿、如何かしました?」
「いや、何も……」
何か、気配を感じた。
いつもの〈奇妙なものを見る目〉とは違う、何か。
(気のせいか……?)
武田家へ仕官してから、気が張ってしまっているのやもしれない。
恐らくそうだ、勘違いだろう。と、俺は何事もなかったかのように庵原殿の屋敷へと足を踏み入れるのだった。