第百六十三話 記憶、問い(第5章序章)
お待たせしました。
武田の鬼、第5章のスタートです。
ここは、どこだ。
何もなかったはずの世界で、ゆっくりと自我を取り戻してゆく。
あの時と似ている。新たな世界に目覚めた、あの日と。
そこは、白光に包まれた世界。温度さえ感じない、五感さえうまく動かせない。
ただ己がここに存在しているという事実だけは、腑に落ちていた。
まず初めに機能を始めたのは、視覚であった。
驚きとともに、徐々に色を増やしていく世界。
それから間もなく触覚、嗅覚と、パズルの如く己を取り戻す方法を会得してゆく。
蘇えゆく記憶に、世界は追いつきつつも追い越せずにいる。
まるで箱を開けるかのように、世界が展開されてゆく。
そのことに気づくまでに、少々時を要してしまった。
温度が、身体に沁みてゆく。
遂にそよ風が、俺の頬を掠めた。
「ここは重要事項だ、次の試験に出すから覚えておくように」
白光から現れた世界には、見覚えがあった。
秋空を見つめていた俺は、己に与えられた状況の変化に気づく。
何故俺は、こんな場所にいる?
俺はこの世界で、自身が高校時代の俺自身として存在していることを直ぐに理解した。
何に思いを馳せていたのか、我に返ったところで分かりはしなかった。
分かることがあるとするなら、そこは俺がかつて通っていた高校の授業風景であるということ。
窓際の席に座る俺は、一度は顰め面を浮かべてみる。その理由は明確であった。
目前で展開された授業が、俺が唯一毛嫌いしてきた科目であった為だ。
ただ、今は違う。興味関心とは違った何かが、俺を突き動かしていた。
《己の生きる術を、知りたい。》
その思いを抱きながらも、俺は未だに己の身体を思い通りに動かせないことを知る。
聞こえる音や声も、耳をすり抜けていく。
不思議だと、俺は思った。やけに現実味を帯びている、いや、帯びすぎている。
なのに、何かが変だ。
こうして、薄々ながら気づき始める。
もしやこれは、現実と一線を画した世界なのではないかと。
ただ、その実態を掴めずにいる俺は、少しずつ焦りを覚えていた。
きっと俺の目にしているものは全て、己の持つ限られた記憶の一端であり、自ずとそれを掘り起こそうとしているに過ぎないのだろう。
書き換えることの叶わぬ世界で、抗うことのできない己の無力さを覚えていた。
その時、一匹の蜻蛉がゆっくりと窓際に足を着ける。
俺がその様子に気づき、ぼうっと眺めていた時のこと。
頬杖を突く俺の耳に入る、低く太い声。
ふと目を向けると、かつて嫌いだった、名前さえろくに思い出せない教師が生徒達に向け、薄笑いを浮かべている。
声さえ思い出せずにいた、男の声。
それが、はっきりと聞こえた瞬間であった。
「ここで一つ、クイズを出そう。
武田家臣の中で、信玄が特に信頼を置いていた人物のことだ。
《武田家の参謀として名高い人物》、といえば、みんなも分かるだろう。
じゃあそこの君。その人物が誰か、答えてみてくれ」
教師は教壇を降り、ゆっくりと歩み始め、俺の目前で立ち止まる。
見上げると、彼は表裏のない笑顔で俺を見つめていた。
「せんせぇ、〇△※☆に聞いても分からないですよ」
「いや、分かるはずだ。〇△※☆くんなら」
その途端、脳裏に雑音が走る。
何を言っているのかは聞き取れないが、どうやら俺の名を呼んでいるだろうことは分かった。
「……俺に聞いてるんですか?」
「ああ、そうだ。君に聞いているんだよ」
教師の予測は当たっている。答えは、山本晴幸に違いない。
ただ、答えが口から出てこない。喉の奥で小骨の如く引っかかっている。
《口にしてはならない。》
そう俺の中で、誰かが叫んでいる。
「おいおい、まさか答えないのか?
答えられないはずがない。
僕は知っているんだよ。《君が答えを知っている》ということを」
「……」
「本当に分からないのかな?ではヒントを出そう。
その人物は、南部宗秀という名の愚将を突き放し殺す。
石井藤三郎と矢島満清に偽善を図り、彼らもまた命を落とした。
そして、彼と添い遂げた唯一の……」
「やめろッッ!!!!」
俺は彼を睨んだ。対し、目前の教師は笑っている。
先程とは異なった、まるで卑下しているかのような笑み。
「もっとヒントが欲しいかい?〇△※☆くん」
「違う……違う!俺はそんなこと……っ!!」
「君の意見なんて聞いていない。
〇△※☆くん、僕が聞きたいのは一つだけ。
その人物が誰かという問いについての、君の答えだ」
汗が垂れる。生徒達は皆揃い、俺を見ている。
途端に、身体中に潰されるような痛みを覚えた。
「......っ!」
痛みに声が出そうになるが、歯を食いしばり耐える。
その時、ふと窓際の蜻蛉が目に映る。
蜻蛉は《見えない力》によって、ゆっくりと、静かに全身が潰されていく。途中までは身体を仰け反らせるなどの数多の反応を見せていたが、挙げ句の果てにはぴくりとも動かなくなってしまった。
その様子に唖然とする俺の机に手を置く教師は、俺の表情を覗き込んだ。
「君はその答えを知っている。
何故なら全て、《君自身のことだから》だ。そうだろう?」
「ち……ちが……」
「みんなも待ちくたびれているぞ。
さあ、答えてくれ。君の、本当の名前を」
呼吸が苦しくなる。潰されるような痛みが増してゆく。
俺は目に涙を浮かべながら、強く拳を握る。
今にも意識を失いかけようとした瞬間、俺は精一杯の声を絞り出した。
「儂は……」
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気付けば、俺は仰向けに倒れていた。
鼓動が速い。ふと辺りを見渡すと、そこは見覚えのある宿へと成り代わっている。
布団を被り、白装束を身にまとった《隻眼の男》は、息を弾ませながら額の汗を拭った。
やはり俺が見えたそれは、己の心中に隠されていた記憶の一端であった。
おっかない夢を見たものだと、俺は目線を移す。
隣には若殿が眠っている。彼女の表情に、俺は心を刺す痛みを覚えた。
夢の中で、あの教師が言いかけたこと。
その真意とは一体何なのだろうか。
考えることをやめた俺は、一度息をつく。
(今日中には、駿河に辿り着けるだろうか。)
そう思いながら、俺はふと外を眺める。
そこには、眩いほどの白光を帯びた朝日が、昇り始めていた。
彼の正体