第百六十一話 晴信の、信念
前回の話(第百六十話)、一部書き直しました。
人というものは、常に何かを犠牲にしながら生きている。
移り変わってゆく自身を恐れながらも、前を向き続けなければならない。
留まる事は叶わず、正しいのかどうかも分からない。
そんな俺も、俺自身を成す幾つもの要素を犠牲に歩んできた身だ。
甘利もまた、然り。
彼は己自身の変化を恐れていた。
それはまるで、初めての世界に揺れ惑う赤子のように。
『己が前に進める方を、選べばよい。』
されど彼は覚悟を決めた。高松の言葉に甘利自身が下した決断、其処に間違いなどあるものか。
甘利の選択が如何なる結果を招こうと、高松は受け入れてくれる。まさしく己にとって最善の選択であったと、そう信じられる心を今の甘利は持ち合わせている。
甘利にはもう、誰の手も必要ない。
次は俺の番なのだと、朝日が照らす城を見上げ、静かに息を吸った。
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城内には味噌の香りが漂う。なんとも懐かしい匂いである。杖を突く度、耳に刺さる軽い音。乾いた空気を割きながら、俺は静かに一歩踏み出す。
目指す先はそれほど遠いわけではない。ただ満足に動かせない身体では、少々時を要する事は分かりきっている。
それでも俺は誰の協力をも借りず、たった一人で此処を訪れねばならない理由があった。
帰陣から七日ほど経ったある日、余韻の消えかかった頃合いで、俺は晴信に呼び出された。
皆が寝静まる頃に話をしておきたいという晴信の提案を耳にした俺は、眠る若殿に置手紙を残して屋敷を抜け出す。
こんな時間に呼び出さねばならない理由とは何か。考えてみたところで結論は出ないまま、誰にも告げる事無く今朝を迎えた訳だが、昨晩は如何にも落ち着かず、ろくに眠ることすら出来なかった。
「此処で、良いのか......」
年老いたその身体で、俺はゆっくりと、ただ確実に目的地への道程を歩み果たす。
そこは言わずもがな、軍議場としても使われる大広間である。
「山本晴幸、只今参上仕りました」
部屋に足を踏み入れると、其処には既に寝衣から着替えた晴信が座っている。傍には四郎と呼ばれる幼子を抱えた御料人の姿もあった。
早朝にも関わらず、眠気を一向に見せぬ晴信を前に俺は杖を置き、安座の姿勢を取る。
「晴幸殿、御容態は如何で?」
「少しずつですが、回復の兆しが見えております」
「それは何よりです。貴方様はその身を以て殿を御救い下さいました。誠、感謝に堪えませぬ」
頭を下げる御料人。彼女の言葉に対して謙遜の姿勢を見せる俺。当の晴信は第三者として何も言及せず、唯険しい表情を浮かべるのみであった。
場に相応しいとは言えない表情に、何か不満事でもあるのだろうかと、俺は首を垂れながら記憶を巡らてみる。
(まさか、俺が身勝手な行動を起こしたことを知って、怒っているのか?)
実際、思い当たる節は幾つもあるのだが、そのどれも定かではない、只の憶測に終わる。
思考が読めない。そんな緊張間が張り詰める空気感の中で、晴信は遂に口を開くのだった。
「甘利は其方の許へ参ったか」
「あ......は、はっ!先日、備中守殿について訊ねたきことがあると」
「左様か。あやつは備中守について酷く思い詰めていたが、あれからというもの、何処か人が変わったかのように振舞っておる。其方が何を申したのかは知らぬが、やはり其方は人の心というものに通じておるようだな」
想定外の問いに戦いてしまう。皺は一向に取れていないようだが、どうやら怒っている訳ではないことを悟り、俺は内心安堵していた。
安堵した、直後のことである。
「......あの時、儂を救ったのは武田の為か?それとも儂の為か?」
「......へっ?」
俺の耳に、低い声が刺さった。
まるで別人のような、声質の変化
ふと晴信を見ると、晴信の表情を成す皺は、数を増やしている。
怒りを帯びた表情に、俺の表情は曇り始めた。
何故、そんな表情をする?
このとき、俺は彼の眉間に寄る皺が示す真意を見いだせなかった。
晴信は期待していたのかもしれない。だからこそ、安心しきっていた俺に失意の念を覚えていた。
意識すれば、注意深く観察すれば、直ぐに気付けるはずである。
今の俺は、それさえも気付くことができないほど、《油断》していた。
晴信の鋭敏な目線は、俺を直に捉えている。
彼の思考は読めないままだが、ただ唯一分かることとすれば、
その問いこそが《彼の最も訊ねたかった問い》なのだということ。
「そっ、その.......」
「......」
両者、沈黙が続く。
惑う俺を見かねてか、晴信は暫くの後に立ち上がり、側の襖を開いた。
途端に突風が吹き、俺はその光景を凝視する。
其処には小川の流れる、見事な枯山水が広がっていた。
「儂には信念がある。多くの国衆が目指す、その先の話じゃ。
多くの国衆は、天下を制することに目を奪われておる。
だが儂は、天下など一つの指標に過ぎぬと思うておる。儂の目指す先は、そこではない」
そこまで語り、晴信は俺の方を振り返った。
「『苦しむ者を見殺しにせず、皆が豊かに暮らせる国を創る』、それが儂の信念じゃ。
それを良しとせぬ者も居ることを、儂は理解しておる。
付いてゆきたい者に付いてゆくと、板垣はそう申してくれた。
其方は如何だ?晴幸、それでも儂に付いて来るというのか?」
俺を見つめ続ける晴信。彼の言葉に、俺は遂に気づく。
これはきっと、晴信が俺を信じている故に投げかけた問いであった。
俺が応じてくれることを、知ってのこと。
だから、晴信はー
「……何じゃ、簡単なことではないか……」
漸く、全てを理解した。
その覚悟に応えんと、俺は俯きがちにほくそ笑んだ。
「殿。私と鍔を交わした《金打》の儀を、まさか御忘れではありませんでしょうな?」
その時、たった一言で全容を悟った晴信に、かつての明るさが戻った。
「はっ、はははははは!
そうか、そうか!
如何やら儂は、とんだ男を見出してしまった様じゃ!」
確信めいた、そしてどこか安堵したような表情。
その側で、微笑み見続ける御料人。それは、彼の心境を理解したうえでの微笑みか。
ただ、天に向かい高らかに笑い続ける晴信の姿に、俺は口を閉ざす。
やはり、この男には人を動かす力がある。
俺の生きるべき場所を見出したのは、紛れもなく晴信の御陰である。
たった一人、俺の持つ術が通じない男。
彼の存在は、鬱々と日々を過ごしていた俺に、大きな変化をもたらした。
歴史に興味など無かった俺はいつしか、この青年の行き着く果てをこの目で見たいと、そう願うようになっていた。
《武田に買われた一家臣であり続けること。》
それが、俺がこの乱世を生きるための一つの術。
駿河にいた頃とは違う。今だからこそ、俺はこんな場所で死ぬ訳にはいかなかった。
忘れかけていた、あの時代。
甘利のように苦しむ者のいない、誰も死ぬことのない国を創りたい。
いつの日か抱き始めた大望に、俺は拳を握る。
死ぬまで晴幸として生き続ける運命ならば、鬼でも何にでもなるつもりだと告げた。
大丈夫だ、とっくに覚悟は出来ている。
そうだろう?
酷く笑い疲れたのか、遂に俯く晴信は俺を睨む。
先程とは打って変わった、色の失った、鋭い眼光を向けている。
「山本晴幸。貴殿の活躍、摩利支天の如き天晴な働きであった。
よくぞ儂を守ってくれた。其方には知行八百貫を与え、我が家の足軽大将の職を与える。
また、其方には後に十日ほど暇を与えよう」
「はっ!」
「其方の働き、これからも期待しておるぞ」
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それからのことは、俺もよく覚えていない。
気付けば城門の外に立っていた己が身に、風が吹き抜ける。
どこか懐かしい、乾いた空気のにおいと暖かさを覚えていた。
笑う晴信の背を照らす金の四つ割菱は、今までで最も眩しく、美しかった。
その光景を、俺は金輪際忘れることはないだろう。
胸に誓い、俺は再び強く息を吸った。
今の俺がすべきことは、分かっている。
俺は再び天を見上げ、微笑む。
雲一つない青空の下。羽織を握り、杖を突き、一歩踏み出す。
直に春が、訪れようとしていた。
次回、第4章最終回