第百六十話 青空、別れ
今年最後の更新となります。
来年も武田の鬼を、よろしくお願いします!
「儂を呼んだか」
若かりし横田高松は静かに立ち上がる。
顔つきは凛々しく、筋肉質の身体。殺気を帯びた目。
血に滾ったその若武者ぶりに、俺は男ながら見惚れてしまいそうになる。
ただ俺は、目前に立つ存在が一種の幻想であるという事実を忘れてはいない。
彼は思念から生み出された要素で形作られた、概念の具現化した姿である。故に触れることすら叶わない。すっかり老いてしまった身体にも、若者の心を持ち合わせていた証拠であろう。
「甘利虎泰殿に関して、其方に訊ねたいことがある。聞き入れてくれるか」
「甘利殿、だと……左様か、原殿も其方が甘利殿と親しい間柄であったことを常々申しておったな」
その名に驚嘆の表情を見せつつ、高松は後方を見上げる。
其処に立つ松は暖かな風に揺れ、全身に黄金の光を纏っていた。
「儂と甘利殿は、この一本松の下で出会うた。
互いを知らぬままで、儂はあやつに救われたのだ。
甘利殿は儂の友であり、生きる糧じゃ」
懐古の念に駆られた高松に、俺は拳を握る。
やはり、彼には伝えねばならない。
問うべきことを己の中で反芻していると、高松は突然声を上げた。
「お、来たぞ!よいっ、甘利殿!!」
高松の目線の先には、薪を担ぎ歩く青年の姿があった。
あれは、と、俺はその姿に釘付けとなる。
此方へ近づく青年を、高松はただ《甘利殿》と呼び続ける。青年は紛れもなく、若き日の甘利虎泰であった。
「おかしいな、聞こえておらぬのか?」
しかし、近場を通ったはずの青年はこちらを見向きもせず遠ざかってしまう。その意味を、俺は瞬時に理解した。
甘利虎泰には、俺たちの姿が見えていない。
初めはそう思っていたが、違った。
一瞬だけ、彼の表情に変化が見えた。
眉間にしわを寄せ、何かを我慢しているような、そんな表情。
「......備中守殿、甘利殿は其方を忘れようとしておる。しかし、長年共に連れ添った盟友ともいえる其方を忘れられるはずもない。ただ忘れねば、記憶の中で己を縛り続けることに変わりはなかろう。備中守殿。其方は今も、甘利殿の記憶の中で生き続けておる。儂が何を言いたいか、分かるな」
高松は振り返らない。腰刀を肩に担ぎ、高松は変わらぬ口調で問う。
「儂が甘利殿を縛っておると、そう申すのか。ならばどうする、儂を此処で殺すか?」
「申したであろう。生かすも殺すも、全ては甘利殿次第であると」
高松はほくそ笑み、後方を向く。
目が合った。その表情は先程と打って変わった、真剣さを帯びていた。
「山本殿。儂は二度と、甘利殿には会えぬのか?」
俺は口を閉ざした。
問い、されど確信めいた口調が、胸のあたりをぐっと締めつける。
高松も自身の正体に辿り着いていたのだ。甘利の中に潜む、実体なき存在。
全ては自身の作り出した虚構であったと。
俺は、そんな彼に対し同情の意を示していた。
《高松の記憶の中に、高松はいない》
それは、彼の中で自己解決を図った結果であった。
風は依然吹き続け、止む気配を見せない。
松の木に歩み寄った高松は、一歩手前で立ち止まった。
「……うつけめ、そのようなことで重役が務まるのか、甘利」
怒りに似た声に背筋が凍る。
その途端、高松の手によって掲げられた刀は、松の幹目掛け振り下ろされたー
「っ!?」
鈍い音を立て、木はゆっくりと地に倒れる。
風と共に砂埃を立て、彼を一瞬にして巻き込んだ。
俺は咄嗟に腕で風を遮り、目を細める。
松は既に黄金を纏っていた面影はなく、徐々に腐敗を進める。
高松の中から、甘利と出会った筈の記憶が、消えていく。
「備中守殿っ、おぬし何を!?」
「……甘利殿に伝えてくれ。其方が前に進める方を選べばよいと」
晴れゆく砂埃から現れた高松は、睨みを利かせた覚悟の表情を浮かべている。
俺は驚嘆していた。何も、高松の咄嗟の行動に対してではない。
彼は刀を杖に、笑みを零していたのだ。
「儂は決して忘れはせぬ。あの男が此方へ来た暁には、儂から声を掛けよう」
「それは」
「山本殿、其方には感謝しておる。
甘利殿が居らねば、其方と会う事も無かったであろう。
其方は何処か、殿と似た目をしておる。
運命を受け入れ、何事にも恐れぬ、強かな目じゃ」
荒くなる高松の呼吸。苦し気な笑みで、彼は俺を見つめ続けていた。
腐敗した松の欠片が、宙に消えてゆく。己の中から消え始める《記憶》を逃がすまいと、必死に己を保ち続けていることは、目に見えていた。
「……山本殿。儂からの頼みを訊いてくれ。
あやつは人前では一丁前だが、本当は弱い男じゃ。
儂が守れなかった分まで、どうか、最期まであやつを守ってくれ」
俺は言葉を失う。
高松は甘利が忘れようが忘れまいが、《己の記憶を自ら犠牲にする》ことによって、自ら甘利の抱える負担を減らす役割を買って出たのだ。
どうして他人の為に、そこまでできるというのか。
こうして、俺は気付かされる。
忘れてしまうことを、無くしてしまう事を恐れない。横田備中守高松という男は、今まで目にした誰よりも強く、優しい武将であったのだと。
そうか、そういうことか。
目頭が、ふと熱くなる。
視界がじわりと滲んでゆく。
高松の言葉に涙ぐむ俺は、覚悟を決めた表情で頷いた。
「……直ぐにとは言わぬ、ゆっくりと参れば良いのじゃ。
案ずるな、儂はずっと待っておるぞ」
全てを伝え終えたと、男は語る。
松の欠片が消える瞬間。
高松は最後まで、満面の笑みを浮かべていた。
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「は……晴幸殿?」
冷たい風が吹き、俺は目を開く。
そこには、俺を凝視する甘利と綱頼の姿があった。
俺は頬に伝う雫を、着物の袖で拭く。
おかしなものだと笑みを浮かべ、俺は語り始める。
高松との出来事を、一つ残さず甘利に伝える。
それだけが、己に出来る唯一のことだ。
甘利は何も言わず、俺の言葉一つ一つを、ただ真剣な眼差しで聞いていた。
「……此れが備中守殿から与えられた言葉の全てじゃ。
もし偽りだと思えば、忘れても構わぬ」
「……いや、備中殿ならば、同じことを申していたであろう。《前に進める方を選べばよい》、か……不思議じゃな、まるで備中殿が本当に申していたかのようだ。その道標を作ってくれたのは、間違いなく備中殿じゃ」
全てを話した俺に対し、甘利は薄ら笑みを浮かべ、左手で胸の辺りを掴んだ。
「何だ、可笑しなものだな。胸が潰されそうになる。
友を無くすというのは、これほどまでに辛く、苦しいのだな……」
俯きがちに、甘利は悟る。
もう、我慢しなくてもいい。
立ち止まる必要などないことを。
甘利の中で、止まっていた時間が動き出した時、
一滴の雫が、頬から落ちた。
「っ……うぐ……っ」
表情が崩れた彼の瞳から、涙がぽろぽろと流れ落ちる。甘利は遂に手で目をこすり、顔を覆い、うずくまった。
声を荒げ、畳を濡らしてゆく。綱頼もまた涙を浮かべ、彼の背を摩る。
抑えてきた感情が、堪えられぬ思いが、溢れ止まらなくなる。
きっと、ずっと、我慢してきたのだろう。
俺は目を細め、口を噤む。
その時、強い風が吹いた。
陽の差し込む縁側から吹く、あの時と同じ、暖かな風。
ふと、肩に感触を覚える。
《御前は、よく頑張った。》
微かだが、はっきりとそう、聞こえた気がした。
「……備中守殿」
俺は涙を浮かべながら微笑む。
脳裏に焼き付いた高松の笑み。
甘利。御前にも、見せてやりたかった。
俺は悟られぬよう、呟く。
達者でな、備中守殿。
雲の隙間。光の筋が広がってゆく。
備中守の姿が、無意識ながら目に映る。
青空の下で、俺は空を見上げる。
きっと最期の別れを伝えに来たのだと、俺は思うのだった。
「わ、わ!履物が多いと思えば!」
「あ、ああ、若殿、帰っていたのか」
唐突に現れた若殿に、俺は反応する。
同時に顔を上げた甘利の顔は、涙でくしゃくしゃだった。
「晴幸殿、もしや泣かせておるのですか?」
「は!?わ、若殿!違うっ!これは!」
若殿が浮かべる不満顔に、慌てふためく俺。
ふと、後方から笑い声が聞こえた。鼻声交じりの笑い声。
全員の目が、その方を向く。
甘利は大声で笑っていた。
それは、備中守と同じ。
まるで鎖が外れたかのような、心からの笑みを浮かべていた。
その日の暮れ、俺は若殿に頼み、甘利達に採れたての野菜を豊富に扱った手料理を振舞った。一口食べ、図らずも笑みを浮かべる甘利に、頼綱と顔を見合わせた俺は微笑む。
「其方には誠に世話になった。此の恩、いずれ必ず御返し致そう」
そう告げて、夕闇へと消える甘利の背中を、俺はただ何も言わず見つめ続けていた。
運命が交錯した第4章。
残るは甘利の選択と、晴幸自身のこと。
残り2話