第百五十八話 逃げること、願うこと
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これからも武田の鬼を、宜しくお願い致します!
山本晴幸の目覚め。その事実は予想だにしなかった衝撃を生む。
唯の浪人衆から、主君を救った英雄へと成り上がった男を、称える者。
傍からそれを耳にする者は、途端に称える側へと身を翻す。
城内はいつしか、そんな彼の噂で溢れ返っていた。
その様子、まるで流行病のようだと、甘利は周囲の声を遮断するかの如く早足になる。
もはや此処には、晴幸を侮らんとする者はいない。初めは受け入れようとしない者も少なからずいたが、良い印象を持つ者が多数派へと移り変わっていく過程の中で、留まり続けることへの恐れを抱いたのだろう。一日経てば『あやつの凄さには初めから気付いていた』などと、まるで掌を返したかのような言葉を発し始める。いつしかそれが本心であったかのように錯覚してしまう集団心理。こうして、ものの数日で山本晴幸に対する評価は一変してしまったのだ。
甘利にとって噂は、さほど気分の良いものではなかった。何処からともなく現れては萬栄する、不思議なことに、それが正しいか否かというのは考慮しない。単に口々に漏れる言葉を伝えたいと、誰もが欲のままに語ろうとすること、其処に本質があり、噂に踊らされることへの不安を生む。甘利はその恐ろしさを他の誰よりも知っていたのだ。
真か偽か、単純な問いかけすら忘れてしまうのは、人にあるべき性ともいえよう。
そこに漬け込んでくる者がいるということさえ、分からなくなってしまう。
「晴幸殿が、目覚めたようにございます」
「......そうか」
彼の足が向かう先には、晴信がいる。
晴信は甘利の報告に応ずる様子を見せることなく、今朝方届いたという書状に目を落とし続けていた。その様子を、甘利は一言も発することなく見続ける。
晴信は既に、次の一手を考えている。砥石城の一件からというもの、彼の心情に少なからず変化が生まれていた事に、甘利は気付いていた。
己の信念を貫き臆せず、されど分別を持ち、自ら茨を進まんとする。その目に燃え続けているものは、今も変わらない。
信虎の許に居座っていた頃とは違う。
凛々しくなられたものだと、甘利は一礼し立ち上がった。
「逃げるのか」
その時、晴信の言葉が耳に刺さる。
身体が微かに反応し、心臓が大きく鼓動を打つ。
甘利は即座に振り返る。晴信は睨みを利かせた眼で、甘利の表情を捉えていた。
「殿?」
「晴幸が目覚めたことは既に知っておる、既に近辺で噂立っておろう。甘利、其方が此処に参ったのは、それを儂に伝え申すためではない。違うか?」
「そ、それは」
「備中守のことを、儂に訊ねたかったのではないのか」
問いに、甘利の表情が壊れた。
何故、そのような表情をなさる?
目前の男が見せる鋭い眼光に、甘利の手は震え始める。
全身に寒気を感じ、その場から動けなくなる。
反応から全てを察した晴信は脇息に肘をつく。
甘利は忘却に努めようとしていた。
それでも盟友を亡くしたという事実は、甘利を縛り続けている。
葬り去ることが果たして正しい行為といえるのか、何処に進むべきか分からなくなり、遂には己を疑い始めた甘利が行き着いた果てが、晴信だった。
問いかけることを拒んでいるのは、最後の砦を壊されることを恐れているから。
此処で逃がせば、二度と備中守に対する未練を晴らすことは出来ないだろう。
それを甘利自身に問いかけること。それは晴信にとっても、相当な覚悟を要するものであったことは事実。
酷だと知っていても、訊ねなければならない。
忘れたくても、決して忘れさせてはならない。
何故ならそれが、上に立つ者として任せられた役目であるから。
騙せるはずがない。何年共にいたと思っている?
そう言わんばかりに、心に鬼を宿す晴信は今一度問うのである。
「其方は逃げるのか。答えよ、甘利」
《晴幸の屋敷》
若殿の許へ戻り、一日が経つ。
俺は木製の杖を手に縁側に腰掛け、雲なき冬空、乾いた空気を吸い込み、思案に耽る。穏やかさの戻った生活。その中で唯一変わってしまったことがあるとすれば、五体が自由に動かせなくなってしまったことぐらいか。
「晴幸殿」
そんな俺の隣に座る若殿。表情は殊の外晴れやかである。
こうして何気ない時間を共に過ごすというのも、俺にとっては久方振りのことであった。
「若殿。儂がいない間、寂しくはなかったか」
「はい、菊様が時折此処へ来てくださったので。ただ……」
「ただ、何だ?」
「い、いえ!何でもありません!」
追求する暇も与えず、若殿は近場の畑へ行くと部屋を去る。
若殿が言いかけた言葉がどうにも気になったが、一人になった俺は再び空を見つめる。澄んだ青に、俺は微かな解放感を覚えた。
あの日も、こんなふうに肌寒い日だったな。
ふと脳裏に浮かぶ、微かな《前世》の記憶に、俺は口を噤んだ。
この時代に来てからというもの、命の危険が迫る度、幾度と思い出しては足掻いて来た。生きることが当たり前だと思えた時代に、俺は思いを馳せる。
《あの時代に、帰りたいのか?》
不意に浮かぶ疑問。
記憶さえ曖昧な時代に、俺の居場所があるとは限らない。
そもそも帰る方法さえ見つからない現状では、意味が無いことは分かり切っている。
せめてこんな日々が続けばいいと願うのは、無駄な願いだろうか。
肌を通る冷たい風に、俺は目を細める。
きっとこの先も変わらず、人と人が殺し合う時代は続く。
己を恨むことさえできない。そもそも、殺し合いに身を投じることを決意したのは俺の方である。
悩んだとて仕方ない。これも俺の運命だ。
「晴幸様は居られるか」
玄関先から聞こえた男声に、俺は返答する。
杖を突き、男の許まで辿りつくまでに少々時を要した。
「おお矢沢殿か、如何した」
「晴幸様の容体を診て参られよと義兄上に頼まれ、参上致しました」
「それは忝い。上がってくれ」
「は。実は私の他に、もうお一方おられますぞ」
「そうか。わざわざ儂の為に、申し訳ない」
俺の許へ現れた矢沢綱頼、ともう一人。
其の男は、綱頼の背後から、ゆっくりと姿を現す。
「甘利、殿?」
そこには、真剣な眼差しを浮かべ俺を見つめる甘利の姿があった。
甘利の決断
第4章、残り3話