第百五十七話 言葉、さすれば
それから五日が経つ。俺の身体は既に、支えを用いて歩けるほどには回復していた。
多少左足の動き辛さが残ってしまったが、全身を強打し背骨を折った割には脅威的ともいえる回復力である。
作兵衛は早速晴信の許へ行く事を提案するが、俺はその前に向かいたい場所があると口にする。
「作兵衛、幸綱殿は何処にいる」
「矢沢殿と共に、塚原様に剣の指南を受けております」
綱頼殿も受けていたのは想定外だったが、概ね予想通りだと、俺は作兵衛に縋りながら立ち上がった。
幸綱は何かにつけ、剣の腕を磨いているように思える。
純粋に生き残るための武器を、剣に見出しているだけなのだろうか。少なくとも俺にはそう思えなかった。言うなれば彼に関する何かを払拭する様な行為に、俺は不穏な感情を抱かずにはいられなかったのだ。
俺は作兵衛の支えを受け城を出る。牛歩の如く歩みながら、佐久間は俺に声を掛けた。
「晴幸様、一つ私めの御話を聞いてくだされ」
「話だと、何の話だ」
「幸綱様と甘利様の事にございます。晴幸様にお伝えして欲しいと、幸綱様が」
そうして佐久間の口から発されたのは、幸綱と甘利のこと。
高松を守れなかったと首を垂れる幸綱に、甘利は呆然と彼の話を聞いていた。
幸綱は懐に手を忍ばせ、束ねられた髪を甘利に渡す。形見だと言う幸綱に甘利は全てを悟る。
俯く幸綱を前に、彼は目に涙を浮かべ、『さぞ幸せであったことだろう』と口にしたという。
「『幸せであった』、か」
「幸綱殿にも問いかけたのですが、あの方もその真意が捕えられなかったと申しておりました」
嘘だと、そう言い掛けて思い留まる。口にすることは、禁忌に触れることと同じだ。
例え甘利が意味を教えなかったとしても、彼の術ならば容易に知ることが出来た筈である。やはり何かしらの言えぬ理由があるのだろうか。
《それを知ることこそ、御主の役目であろう?》
「何だと?」
「如何されました、晴幸殿」
「あ、いや、何でもない」
微かに響いた声。その正体を知る俺は目を細める。
そうだ、同じ価値観を持った、同じ境遇を辿った者として知らねばならないのは俺の方だ。
御前はいつも、肝心なことは教えてくれないのだな。
幸綱はきっと、甘利の言葉を真に受け入れることができなかったのだろう。
信じられなかった、いや、信じようとしなかったという方が正しいか。
幸綱自身が、その意味を知ることに何かしらの恐れを抱いているのだとしたら?
「己の死に場所を見つけられたこと、それこそが甘利様の申す幸せそのものなのでしょうな」
作兵衛の言葉に、俺はふと目線を上げる。今にも降り出しそうな曇天の空に、白い息が消えてゆく。
「作兵衛、其方は戦場で死にたいものか」
「私は元より武家の出ではございませぬので、戦場で朽ち果てるなど、そのような考えは抱きかねますな」
「......儂は、死ぬのが怖い」
「私もでございます」
手が震えている。それは寒さのせいか、それとも。
左足を引きずる俺の目には、彼の強かな表情が映っている。
強いな、この時代に生きる人達は。
佐久間の言葉こそが、真理なのやもしれない。その言葉に隠れているのは、一種の搾取であろう。
死ぬことに空虚な価値を覚えざるを得ない、そんな時代に価値観を押し付けられ、どうしようもなくなってしまう。
俺たちにとっての倫理も常識も通じない、そんな時代で生きる為に必要なこと。
死ぬことに誇りを覚える、幸綱も俺も、その幸せを理解できるはずがない。
それでも、理解するしかないのだ。
それが、同じ価値観を持つ、残酷ともいえる俺達の運命なのだから。
「着きましたよ」
我に帰ると、そこには久方ぶりの光景が広がっていた。刈り取った稲穂の跡が目立つ田畑の中に立つ一軒の屋敷に、俺達は足を踏み入れた。
門を抜け、庭に立つ一人の女性に、俺は遠方から声をかけた。
「......晴幸、殿」
彼女は目を見開き、驚いた様子を見せる。
信じられないというように、目に涙を浮かべ始めた。
俺は彼女に対し、頬を緩める。
何もかもが未熟な俺にはまだ、知らねばならない事も、考えねばならない事もあるだろう。
でも、今だけでいい。
今だけは、忘れさせてほしい。
「只今戻った、若殿」
微かに見えた、雲の隙間。
光明に照らされ、俺は高らかに、そう口にした。
第4章、残り3話